不思議の国のかぐや姫(分割版)

島波春月

第1話

 満月である。

 その老人がそまつな寝床から起き上がったのは、”太陽が眩しかったから”ではない。この老人が、のちにそれを動機として殺人を犯すわけではないからだ。

彼の隣で眠っていた老婆に対する殺人の計画を予定していたわけでもない。なぜならこの老人は”ロジオン・ロマーヌイチ・ラスコーリニコフ”ではないからだ……

彼は太陽がまぶしかったからといって人を殺めたフランスの青年ではなく、金貸しの老婆殺しを画策したロシアの青年でもなく、このあたりの界隈では”竹取の翁”とか、別にどうということもない名前で呼ばれているだけのただの老人で、だからこそ彼は別に大した思想も行動理念も持たず作らず、一日の労働に疲れ果てただけの一介の労働者として、その安眠を妨げる要因であるところの光源の出どころを知りたくて、寝床から重い腰を上げただけなのだった。

 板張りの、そまつな小屋である。雨風がしのげれば上々という程度の賤屋の中で、彼の横では年老いた、年の頃なら四十二、三程度の、糟糠の妻がやはり日中の労働に疲れ切って、しなびた大根のようになって眠っている。彼はちょっとそれを見下ろして、それから寝床を抜け出し、小屋の外に出た。

 彼の生業は竹取りである。野山にまじりて竹を取りつつ萬のことに使いたりとかいうあれである。米を作っているわけでもなく、養蚕をやっているわけでもなく、絹を打ったり獣を獲ったり、お役所に勤めたりしているわけでもない。彼の住まう小屋の近くにはちょっとした竹やぶがあって、そこから竹を切り出して加工し、それを米や魚や野菜に替えて暮らしている。彼らが作るのは主に竹を細工したもので、そのようなものはどんな職業の人々にも必要とされたから(魚籠、箕、笊、櫛、竹笛、竹を削った白屑を煎じた生薬、へその緒を切るための小刀……など)、貧しいながらも老夫婦二人が食べていくくらいの生活は出来るのだった。

 彼らは彼らなりの生活を全うし、その中で特別な不足に陥ることもなく、平和に暮らしていた。その生活に満足できるほどすべてが充足していたわけでもなかったが、極度な貧困に飢えあえいでいたわけでもない。彼らは彼らで、その後放っておいても、それなりの生活基盤に沿った一生を全うしたのかもしれない。しかし、そのような彼らは或る夜の出来事によって、それまでの生活から完全に引き剥がされてしまうことになるのだった。

 それにしても、まったく真昼のような明るさだ。

 彼はその満月の夜、光るなよたけを見た。時は丑三つ、卯の日、一日がまた新しい一日に生まれ変わるまさにその時、彼はその発光する、ナゾの若竹を発見したのである。

 その日は特別暑い日でも寒い日でもなかったが、彼は気がつけば額から、一筋、二筋と、たらたら汗を流していた。そして彼はその場で、誰かに影を縫い留められでもしてしまったかのように、しばらくじっと立ち尽くすことになる。

 真昼のような青白い光が照り下ろす中、彼の影ばかりが黒々としている。それと正反対に、竹の中から漏れる、というよりもほとんど四方八方に光線を出しているかのような攻撃的な光があたりに飛び散っているのを見て、彼はおもわず身を竦ませた。

 しかし、老人には分かっていた。

 ”それ”は老人の行動を待っている。”それ”は老人の接触を、今か今かと待ち望んでいるのだ。老人にはそれが分かる。だからこそ老人はここでその恐怖をこくふくして、小屋の裏に立て掛けてある竹を切るための斧を持ってきて、なよたけの中身を確認しなければならない。本来であるならば身など詰まっているはずのない、空洞であるはずの竹筒の中身を。

 今や金縛りは解けた。今や老人は、恐怖に脅かされたちいさなはかなき生き物などでは決してなく、使命感にみなぎる、一己の遂行者だ。こうなってしまえばもう、誰にも、どうにも止まらない。

 それにしても、女というものは……

 老人は斧を手にしながら考える。それにしても女というものは、ものすごいものだ。女というものは実質そのものでしかない。こんなに月が青いのに、月がとっても青いから、俺はこうしてのこのこと、おのれの睡眠時間を削ってまで、恐怖と戦い、その根源を突き止めようと邁進しているというのに……

 でもどうせ、俺のほうが間違っているのだ。老人は大股に歩きながら考える。

 彼の連れ合いがまだ小屋の中で眠っているのは、眠るという行為に生活上の必要が絶対であるということを、彼女が無意識にでも意識的にでも理解しているからに他ならない。眠らなければ明日の仕事に差し支える。仕事に差し支えが出れば、仕事の能率が悪くなり、生産力が落ちる。生産量が落ちるということはそれすなわち生存の確率を下げるということに直結し、われわれの生活そのものが生の状態維持という目的を根本としているものなのだとすれば、睡眠時間をいたずらに削るなどというという行為は、自殺行為の延長にほかならず……、などと、そこまで老人が短い間に考えたか、どうかは知らないが、とにかく彼はそのような、自身の行動を自身の連れ合いの行動と比較して、ちょっと後悔しながら、しかしその二本の足はすでにして、発光するなよたけの元に立ち尽くしているのだった。

 攻撃的な光を放つその竹をめのまえにして、彼は目を瞑った。

それから彼はそっとまぶたを上げた。もう眩しくなかった。そして彼はそれを不思議とも奇妙ともおもわなかった。ただそうなったからそうなっている。眩しくないから、眩しくないだけだ。彼は斧を振った。そしてそこには、なよたけの……

 女の子どもは二人居た。それは竹の節に、ぎっちり詰まって息をしていた。

 彼は、それを見て、ちょっと気持ち悪いなとおもった。肉がミツチリ詰まって、ひとつの塊みたいになっていたからだ。

 彼はそのちいさな人間に似た形の二体の体をすくいあげるようにして、竹の中から取り出した。

 それらは呼吸をしていた。桃色の腹あたりが浅く上下している。見れば見るほど、それは人間の縮小版そのものだ。老人のしわくちゃの手のひらの中に収まる程度のちいさな二つのその体は、そうやってけなげにも呼吸をしているらしかった。

 申し訳程度に生えたやわらかそうな髪、血管の浮き出た、すきとおる薄いまぶた、ちいさな珊瑚色のくちびる、桜貝のような、ままごとみたいな、きっちり生え揃ったちいさなまるい爪……

 まるで本物の人間じゃないか!

 そしてその小さな赤ん坊には、体以外にも奇妙なところがあった。

 彼女らの腹は呼吸によって上下しているが、その下腹部あたりに、一本の肉の線がある。それは一方の腹から伸びて、もう一方の赤ん坊の腹につながっていた。

 へその緒? と老人はおもった。

 切ったらどうなるのだろう。死んでしまうのだろうか。というよりもこの二人の赤ん坊(のようなもの)は生きているのか、なぜ竹の中などに? しかし彼がそれ以上、その異常な状態についておもいなやむことはなかった。

それは、彼がまったくの生活者であったということに起因していた。

 生活者にとって、起こったことというのは起こったことなのだ。それ以上でもそれ以下でもない。鍬で土を耕していて、石がそこにあれば退かしてまた鍬を下ろす。魚が取れなければ魚の取れる場所まで行って取る。トライ・アンド・エラー、トライ・アンド・エラーを繰り返し、それが弛むことは決して無い。弛むことすなわちそれは生活の放棄であり、生の放棄であることを、生活者というものは自然と理解しているものなのだ。

 だから、起こったことは仕方がない。過去についてうじうじと言葉を連ねてみても腹は膨れないのである、彼は起こったこと、つまりその生き物との邂逅を、まるですっかり過去としてしまって、その衝撃について考え、悩み患うような無駄なことはしない……というよりもできないのだった。

 彼は自身の両手のひらに、その二つのつながった塊を乗せたまま、開きっぱなしだった戸口から小屋に入り、そまつな木綿の布のうえに、そっとその塊を乗せた。

「……………」

 その塊はもはや発光などしてはいないのだった。では今まで何が発光していたのか? などと、生活者であるところの彼が考えるはずもない。ただ彼は、現在のことばかりを考えている。

 果たしてこの肉色の、細い紐のようなもの、切るべきなのか切らざるべきなのか? 

 ぱちん、と肉の弾ける音。気づいたら彼は竹の小刀を片手に、その奇妙な細い紐を切っていた。そこでそのつながったふたつの塊が息をするのを止めたらこの話はここで終わりだがそうはならなかったのでこの話はもう少し続く。

 二つの塊から離れたその紐は、彼の指に摘み上げられて残った。彼は二つの塊を見下ろした。ひとつが寝返りを打った。そうしたらもう一つが、まるでそれをすっかり真似するかのようにして、同じように寝返りを打った。そして、まったく同時に、四つの目が、ぱっちりと開いて、彼のことを見上げた。

 人間だ、と彼はおもった。


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