26.秘術師の役目

 すぐに出発することに決めた二人は準備を始めた。エリーアスが自分の荷物を取りに行っている間に、クレリアは配達局へ辞職の挨拶をしに向かうことにした。


「怒られるかなぁ」


 少しも配れなかった配達物が詰まっている鞄が肩に重い。主の心配を嗅ぎつけたミンミは高く悲しげに喉で鳴いた。

 しかし予想を裏切り、配達局に入ったクレリアは局員たちに起立して迎えられた。局長が急いで近づいてくる。

 その時点でクレリアは皆が既に何かを知ってしまっていることを悟った。


「あの、すみません、全然配達できませんでした。突然なのですが、もう街を出るのでやめます」


 局長はしばらく、何と言っていいか分からないという顔でまごまごしていたが、我に返ってクレリアから配達鞄を受け取った。


「い、いえ、とんでもございません。お疲れ様でございました。……君、あれ、あれ!」


 事務所へ向かって囁き、激しい手振りをする。

 急かされてやってきた事務員が持ってきたのは少しのお金だった。局長がそれを手ずからクレリアへ丁重に渡した。


「今日までのお給与です……どうぞ」

「でも、今日は何もしてません」

「ならば餞別とお思いになってください」


 断る方ががっかりさせそうだったので、受け取ることにした。


「お世話になりました」


 一礼すると、皆はより深く頭を下げた。少し窮屈な気分になった。

 宿に戻るとエリーアスが戻っていた。マントを着て、荷物はクレリアと同じく背負い鞄が一つきりの身軽な格好だ。


「馬車乗り場で時刻表を見てきました。アルメンに向かう馬車は十数分後に来ます」

「すぐ出た方がいいですね」


 クレリアも荷物をまとめた。一行は受付に鍵を返して、宿の表に出た。

 アルメンの方面へ行く馬車の乗り場は街の端にあるという。一旦、噴水広場に出ないと行けないため、一行は裏通りを歩き始めた。

 正午近くになり裏通りにもようやく太陽の光が差した。通りの空気はまだ湿気ており、少し蒸した。


「……付いてきています」


 エリーアスが呟く。何が、と思って振り返ろうとすると、「いけません」と囁かれた。


「聖女様」


 そう呼びかけられたので、振り返ってはいけない意味が分かった。

 裏通りを進むごとに後をつける人々の足音は増していった。通りを抜ける頃になると、かれらはかなりの集団になっていた。

 老若男女みんなが、クレリアの背に何かしらの期待を込めた視線を浴びせている。中には祈りの句を唱えている者もいる。

 この光景を見たウェールキの他の人々はぎょっとした後、その意味に気づくと、やはりクレリアを特別な目で見た。集団に加わって歩く者もいた。


「……聖女様、聖女様!」


 少年の高い声が走ってきた。人をかき分けたらしく靴音と祈りが少し乱れた。


「聖女様、助けて!」


 クレリアはその声に聞き覚えがあった。ミンミが振り返って尻尾を一振りしたのを見て今朝のことを思い出したので、あ、と声を上げて振り返った。

 そこにいたのはやはり、屋根を歩いていたキャスケットを被った少年だ。少年は彼より小さい少女を背負って、肩で息をしていた。


「あのね、僕の妹、体が弱くて少しのことで息切れしてしまうんだ。お医者にかかってるけど、お金が足りなくてちゃんとした治療ができないし、秘術師にかかることもできないし。家の湿気のせいだから、地下水道が治れば病気も治るって皆は言うけど、妹はそれを待てないかもしれないんだ。だから、お願いします。助けてください!」


 噴水広場を通り抜けてすぐのところだったから、聖堂の堂々たる姿がまだ見えていた。少年が聖堂にも聞こえそうな大声で自分に助けを求める光景を、クレリアは悲しく、悔しく感じた。

 少年が声を上げたのを皮切りに、他の人々も騒ぎ始めた。


「助かりたいのは皆同じさ!」

「聖堂は法外な謝礼を要求するのよ、風地区の金持ちしか相手にされないわ」

「医者にこまめに払ってきた金が今そっくり全部手元にあるなら、俺は秘術師に払う方を選ぶね」

「誰だってそうだろうよ! すぐ治る方法がそばにあるのに、誰が何年も苦しむ方を選ぶ?」

「何十年も病気に耐えているけど、良かったことなんて一つもないよ!」


 やがて人々は我も我もとクレリアに助けを求めた。エリーアスが立ち塞がらなければ、足元に縋られてすらいただろう。

 騒ぎを聞きつけた警吏たちがやってきて、人々を落ち着かせようとしたが、逆に声をまとめ、大きくする結果になった。


「聖女様、御慈悲を!」

「聖女様、苦しいんです!」

「聖女様、お金がないんです!」


 クレリアは拳を握ると、自分を下がらせようとしたエリーアスへ首を横に振って、少年の元へ進み出た。皆は静まった。


「一つの病気や怪我について、お医者にかかったら、秘術師は何もしてはいけない。秘術師にかかったら、お医者にかかってはいけない。それが決まり事なの。でも……」


 顔を上げた少年の目を真っ直ぐに見つめた。


「私は聖女ではないし、誰でもないけど、秘術が使える旅のならず者だから、決まり事なんて知らない」


 クレリアは少年の肩の上でぼんやりしている彼の妹へ手を伸ばすと、淡い金色の光をその体にまとわせた。

 数秒もしない内に少女は顔を上げると、平気そうな顔で少年の背中から下りて自力で立った。


「聖女様っ!」


 他の人々が殺到した。クレリアは素早く次から次に秘術をかけていった。

 警吏の立場から見れば、見境なく秘術をかけるのは違法行為に当たるのだが、野次馬の人々と同様にかれらもまた、特別な力が無償で誰にでも平等に分け与えられていく光景に唖然とするばかりだった。

 止めようとする者はほとんどいなかった。誰もがこの光景に爽快感を覚えていたからだ。

 エリーアスもそうだった。しかし遠くに聖堂自警団の姿が見えると、クレリアの肩を引いて無理やり人々から引き離した。


「馬車が来ます。もう行かないと……」


 クレリアはエリーアスに引きずられるように歩いたが秘術はやめなかった。手を伸ばして届く範囲の人を全員癒やした。聖堂自警団が人々を追い立てて解散させるまで、ひたすらに。

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