16.興味本位

 何もかもが釈然としなかったが、ひとまずお湯は使える機会に使っておこうと思い、風呂場に入った。

 風呂場も部屋と同様に淡い色で飾り立てられていて現実味がなかった。さらに驚いたことに、白い浴槽の蛇口をひねって出てきたお湯はミルクを混ぜたような乳白色をしていた。夢のような空間と言おうか、気味が悪いと言おうか。シャワーの方は普通のお湯が出たので、そちらだけ使って全身を洗った。

 洗面所へ出ると、ちょうど着替えを持った若い女性が入ってきたところだった。タオルを巻いただけの姿だったクレリアは咄嗟に風呂場のドアの裏に隠れたが、相手の方は顔色一つ変えなかった。


「着替えを手伝うように言われたんだけど」

「置いておいてください」


 女性は何歳か年上に見え、目を鋭く細めると威圧感があった。


「一人で着替えられるの?」

「で、できます」

「背中のリボン結びを一人でできるわけ?」


 女性はベールを重ねたような幻想的な服を着ていたが、退屈そうに首を傾げるせいで印象はちぐはぐだった。閉口していると、ため息をついて風呂場からクレリアを引っ張り出した。


「さっきライムライト伯爵がロビーに来てたわ。本物の伯爵かどうかは怪しいけど、常連客の一人よ。マダムはいつも新人の初仕事を常連客に頼むから、きっと彼があんたの最初の男になるわね。あんた、料理できるの?」

「え? 少しだけなら……」

「最初は食材無いでしょ? 私が代わりに作ってもいいわよ。代金はもらうけどね」


 言われたことの意味を考えている間に、クレリアはされるがままに着替えさせられており、気づけば丈の短いチュニックワンピースを身に着けていた。太ももが見えているのに、それ以上着るものはもうない。


「それでどうする?」

「つまり、ここで働いて貰ったお手当を食材の購入に当てて、次の仕事からは自分で料理を作ってまた働く、ってことですか?」

「ふーん、少しは頭が回るんだ。で、先立つものが必要でしょ?」

「必要なことなら仕方ないので、あなたにお願いします」


 クレリアはふと思いついて言い加えた。


「野菜と肉のパイを作れますか?」

「はぁ? リクエストは受け付けないわよ」

「そうですか、ごめんなさい」


 事情を話さなかったことが、逆に何かを察させた。女性はつややかな唇をちょっと突き出して考えた。


「パイ生地は手間だからマカロニで作ってあげる」

「気を遣ってくれるのですか?」

「はっきり言わないでよ。それにここでは助け合いが必要ってことよ。はい、次は化粧」


 女性はクレリアを風呂場から出して化粧台の前に座らせた。


「分かりました、覚えておきます。あなたのお名前もそうしたいのですが。私はクレリアといいます」

「『ミモザ』よ。あなたは『ライラック』だからね」

「部屋の名前で呼ぶのは変だと思いますが、ありがとうございます。ミモザ」


 ミモザは鏡越しに呆れた目を向けてきたが、ブラシで髪を梳いてくれる手付きは丁寧だった。



 化粧を終えて待っていると、黒尽くめの係員が連絡にやって来た。


「お客様がいらっしゃいます」


 係員の後ろにミモザが来ていて、入れ替わりに入ってくると茹でたマカロニの皿とソースの鍋を小さなキッチンに置いた。


「少し温めればすぐ食べられるわ」

「はい。ありがとうございます」

「もう聞いたわよ。じゃ、お行儀よくね」


 ミモザは急いで出ていった。

 少しして、丁寧なノックが聞こえた。ドアを開くとハットと杖を持った、絵に描いたような紳士がいた。


「こんばんは。私はライムライト伯爵という者です。あぁ、今日はなんて厚い雨雲がかかっているのでしょう、しかしあなたという暖かい輝きに出会えたのは幸運でした。この夕立が止むまで雨宿りをしていってもよろしいかな?」

「雨が降っているんですか?」


 窓を振り返ったが、カーテンの向こうからは何の音も聞こえない。


「ええ、雨がね。つまり、私をここに引き止めたがる心がそう思わせるというわけで。お邪魔しても?」

「よく分かりませんが、どうぞ、いらっしゃいませ」

「その文句、お店みたいだねぇ。何番の席に座ればいいのかな?」

「お食事を出しますから、窓辺のテーブルにどうぞ」


 伯爵は堪らずといった風に笑った。


「新しい子が入ったとマダムが仰るから来てみたら、随分初々しくて可愛らしい。ま、今夜は君のペースに付き合うよ、ライラック。ところで帽子と杖はどこに置いたらいいのかな?」


 クレリアは部屋の中を見回して、ドアのそばにコート掛けがあるのを見つけて指さした。


「そこはどうでしょうか?」

「ああ、ちょうどよさそうだね」


 伯爵はそういいつつクレリアの様子を窺ったが、もうキッチンへ向かっていたので、諦めて自分で置いてテーブルへ着席した。

 クレリアはひき肉とナスが入ったトマト味のソースを温め、マカロニが入っている二つの皿に掛けてテーブルへ置いた。


「美味しそうだ。どうしてこれを作ったんだい?」

「これはミモザが作ってくれました。私はまだ食材を買うお金がないので、そうするしかなかったんです」


 正直な裏話に、伯爵は困惑の表情を浮かべている。


「それは、助け合いの話だね?」

「ミモザもそう言っていました。それで、私が肉と野菜のパイを作って欲しいと言ったら、パイの代わりにこれを作ってくれました。なぜパイが欲しかったかと言うと、私が少しの間お世話になったお家の人が、そこを出発する時に作って持たせてくれたのですが、馬車に乗っていたら野盗に襲われて、さらわれた時に取られてしまったので、悔しかったからです」


 クレリアは昼を食べそこねたので、マカロニを次々と口に運んだ。一方、伯爵の手は止まっている。


「ところで、ライムライト伯爵はなぜ食事をするためにわざわざこんな街外れにいらっしゃるのですか?」

「うん? それはもちろん、君のような可愛らしい子と一緒に食べたいからさ」


 伯爵は調子を戻して気取った笑みを浮かべたが、クレリアは首を傾げた。


「街にも女性はいるのに、どうしてここまでいらっしゃるのですか? それに料理だって、ミモザのマカロニは美味しいですが、料理人が作った方がもっと美味しいのに。どうしてわざわざ馬車を出してまで来られるのですか?」


 純粋無垢もここまで来ると無礼千万であった。伯爵は無言で部屋を出ていくと、やがてマダムを連れて戻ってきた。


「あなた、とんでもない不良娘ね」


 マダムは呆れ顔で、ため息とともに濃い紫煙を吐き出した。

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