06.修道院への帰宅

 夜空に白い月シンスの真円のかんばせが照る頃、アウロラ修道院の慎ましやかに明るい窓辺がようやく見えた。

 もう一息だ、と震えるほど疲れ果てている脚を鞭打つ気持ちで必死に動かす。アーチ型の空中回廊をくぐり、土の中庭を縦断していると、一階の食堂の窓が開いて、記憶にある顔が覗いた。


「アレッシア!?」


 同じ窓や隣の窓に続々と知っている人たちが集まった。アウロラ修道院は男女の区別なく入れるので、アレッシアには擬似的な姉妹だけでなく兄弟もいる。

 皆へお辞儀をすると、かれらは食堂から押し合って出て、同じ勢いで玄関のドアから雪崩のように現れた。


「本当に聖女様だわ」

「どうしたの? 休暇かい?」

「まさかここまで歩いてきたの?」


 皆はアレッシアを取り囲んでわいわい喋るが、当の本人が押し黙っているので、次第に落ち着きを取り戻した。


「本当にどうしたの?」


 アレッシアは懐かしい兄弟姉妹を苦しい顔で見渡すと、一歩後ずさって、もう一度お辞儀をした。


「私は聖女ではありません。ただの旅の秘術師です」

「え……なになに? 何かの遊び?」


 そこへ、玄関からもう一人出てきた。皆が道を開けて通したその女性こそ、修道院長のルピナスだった。

 歳の近い兄弟姉妹たちは四年経つと見違えるように背が高くなっていたり、若者らしい魅力を増していたりしたが、院長は六十代に突入しても変わっていない。ただ一つ、アレッシアを見る目に憐憫が籠もっている以外は。

 アレッシアは母代わりの院長に抱きつきたかった。院長もまた、赤子から育て上げた娘のような存在を抱き寄せたくてたまらないようだった。だが二人とも衝動をこらえていた。そしてこの場において、そうしなければいけない理由を知っているのは、アレッシアと院長だけらしい。


「……ちょうど夕餉が終わったところですが、何か残り物があるでしょう。それでよければお出ししましょう、旅の人」

「食べるものは持っていますが、ここの料理が食べられるならなんでも構いません。ありがとうございます」


 アレッシアは院長に付いて玄関へ向かった。兄弟姉妹たちは顔を見合わせて二人に続いた。

 歴史ある清貧なアウロラ修道院は光晶灯をほとんど取り付けていない。食堂を照らしているのは昔ながらの蝋燭のシャンデリアで、その暖色の明かりは言わば、アレッシアがここで送った人生の象徴だ。

 兄弟姉妹が食べ終わった皿の片付けに戻る中、アレッシアは長いテーブルの隅に案内された。荷物を下ろして長椅子に腰掛けると、院長が近くの者に食事を持ってくるよう頼みながら向かいに座った。

 間もなく食事が出された。夕食の残りとは言うが、シチューもパンも温め直されていた。


「白い月シンス、穏やかなお月様。今夜の糧に感謝いたします」


 短い祈りを唱えてから、それらを丁寧に食べた。味付けも、硬い椅子の感触も、懐かしいものばかりだ。何の事情も抱えていなければ、もっと懐古に浸れただろうに。

 食べている間に、自分の仕事を終わらせた兄弟姉妹たちが続々とテーブルに集まった。院長が頃合いを見て口を開いた。


「今朝、ステファン王がお隠れになったと噂を聞きました。そのせいで聖女によくないことが起こったとか」

「……私の……友達の話なのですが」


 アレッシアは緊張している喉を、水を一口飲んで潤してから続ける。


「王様に仕えていたのですが、働きが足りなかった罪で追放刑になりました」


 勤勉な兄弟姉妹は古い刑罰について知識があったようだ。なので、アレッシアの身の上に起きたことをやっと理解して目を瞠った。院長も、本人から事実を確認して改めて動揺したようだ。


「追放刑とは、今までの人生を封じられ、別人として生きることを強制される刑罰……。名を奪われるのは本人だけではありません。たとえ家族や友人であっても、その人の以前の名を呼んではいけないのです」

「でも、よりによって聖女がそんなふうに扱われるなんて。一体何をしてそんなに嫌われたんです? その、あなたのご友人は?」


 いつもは軽口を叩いて皆を笑わせていた兄弟の口調が、さすがに真剣味を帯びている。アレッシアは少し口ごもった。


「蘇生術を作ったんです」

「……なんですって?」

「陛下のご容態がどうしても良くならなかったので、亡くなった後に生き返らせることで、体調を仕切り直すという方法を思いついたんです……私の友達が。でも、その秘術が陛下には上手く働かなくて、嘘つきだと言われてしまって……」


 自分が一度処刑されたことや、その際に蘇生術を自分に試して成功したことなどは、言えそうになかった。皆、今の話で絶句しているのだから、これ以上怯えさせたくない。

 だが、衝撃による沈黙の中、一人だけ反論のある人がいた。院長だ。


「誰であれ、王であれ、人はいつか死ぬもの。それを覆そうなんて……なんと呆れたことでしょう」

「でも……すぐに食べなければ死んでしまう人に食事を与えることと、死に瀕した人に可能性を試すことは、一体何が違うのですか? どちらも本人が望んでいない死を遠ざけるための手伝いではありませんか?」


 兄弟姉妹たちはアレッシアのこういう考え方を知っている。この若き天才的秘術師には少々癖があるという点を既に受け入れている。それは院長も同様だが、彼女はこういう時の説教を一度も欠かしたことはなかった。


「食事は人を生かす代わりに何かの命を頂くことで、自然界の規則に従っている単純な循環です。一方、秘術はシンスが我々人間に与えてくださった無償の愛情ですが、こう考えたことはありませんか? 何の犠牲も払わずに傷や病を癒やせる秘術という力は、極めて珍しい特例である、と。自然界から見れば、循環しない型破りの要素なのです。だからこそ秘術は奇跡的でありがたいものですが、何物もあり過ぎると害になります。奇跡が氾濫しては世界は壊れてしまうでしょう。特に、死者が蘇るような奇跡は……どれほどの混乱が起きるか想像もつきません。陛下が蘇らなかったことは、むしろシンスが世界をお守りくださったお陰かもしれませんよ」


 アレッシアは千切ったパンをシチューに浸したが、口へ運ぶのに時間がかかった。その上、もう美味しいと感じなかった。

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