第二話 恒星クジラは疲れを取る

 はてさて。残り少ない茶を飲み干した事で、ちょっと冷静になれた。


 窓際まで寄って夜空を見上げてみると、月の隣に馬鹿デカい鯨がいた。家の周りの人も外に出てきて空を見上げ、おー、と声を上げている。スマホを空に向けて写真を撮っている人も多い。かく言う俺もスマホを取り出して写真を一枚。


 とりあえず俺の部屋にいるのは、宇宙関係の人々を大騒がせしているクジラ。テレビ映像は女の子が見せた幻とか、盛大なドッキリとかでは無くて真実であったようだ。


「うーん……」


 色々と考える。


 その中でも一番大きな疑問が一つ、それを少女にぶつけてみる事にした。


「ええと、君が恒星クジラだとして、なんで俺の家に?」


 そう、そうなのだ。

 地球人口八十億、うち日本は一億二千万。総理大臣のトコとか、有名学者のトコとか、石油王のトコとか、何処でもあっただろうに。その中で何で我が家へ来たのか。平々凡々なクソ平民サラリーマンだぞ、俺は。


 もしや、地球人サンプルとして解剖されたり、頭からパクリと食われるのか?そう考えると正直怖い。だがしかし、ヤる気なら既に俺は死んでいるはずだ。うん大丈夫、絶対大丈夫、多分大丈夫、大丈夫であってくれ、お願い神様。


 …………あれ?神様が人知の及ばない存在って事なら、恒星クジラは神様みたいなものでは?そうなると俺は、何処に向かって祈れば良いんだ?


 そんな事を考えている俺の手に、またもやメモ用紙が滑り込んできた。


『なんとなく』


 いや、なんとなくってドユコト!?地球人サンプルとして近くで行動を見るため、とかの方が納得するよ!?全くもってワケワカラン……。


 ああ、なるほど。そうか。人知の及ばない存在、か。


 そりゃあ俺なんかが考えても分かるわけ無いよなぁ…………。


 で、納得できれば楽だろうよ!こちとら当事者なんじゃい!


 いや、もういい。深く考えるのは止めよう、うん。そういう難しい事はテレビの向こうで頑張って解説してるJAXAの職員さんたちと、遠い海の向こうのNASAの人たちに任せるよ。


「なんか疲れた……、風呂入ろ」


 ふう、と一つ息を吐いて俺はリビングを出ようとする。


トン

「ん?」


 不意に肩を叩かれたというか、突かれた感覚がして振り向く。

 と。


「むぐ」


 頬にぐぬりと何かがめり込む。ほらアレだ、振り向く所に人差し指を突き出しておいて、ほっぺがグニッてなる悪戯。それをやられた。


 …………ナンデ?


 というのは良いが、背後に少女はいない。ソファに腰掛けたままだ。とするとこの、頬を突いている見えないナニカは何なのだろうか。


 ぐぐぐ、と力任せに振り向きを継続する。それをさせまいと見えない指は押し返してくる。そんな不毛な攻防をしていると。


どずっ

「んぐぁっ」


 振り向こうとしていた方向とは逆。伸びきった首筋に何かを突き刺された。


 特に鋭い痛みは無い。だが人差し指くらいの太さの何かが、皮膚から筋肉まで入った衝撃が伝わって思わず声が出た。


「え、なに!?なにしたの、今!?もしかして俺、身体の中からエイリアンに食い破られて死ぬ!?」


 嫌な映画のワンシーンが思い浮かぶ。腹の中に寄生されて、こう、ボバンッてなるヤバイ光景が。何を打ち込まれたかは分からないが、刺された首筋を押さえて擦る事しか出来ない。


 大混乱の俺の顔面に飛んできたメモ用紙が、びたんっ、と貼り付いた。それを取って書いてある文字を見てみると。


『でとっくす』


 …………???

 あ!デトックスか!平仮名で書いてあるから分からなかった。


 ん、そう言われてみると何だか体中の疲れが取れているような?


「肩のりが無い!?腰が楽!?眼精疲労が飛んでった!?凄ぇ!?」


 不調だった色々が消えて無くなっている。これは凄い、凄すぎる。整体院とか開業したらあっという間に大人気店になるやつだ。


 って、違う!


「何の説明も無しにやらないで、怖いから!」


 流石に抗議、無意味に怖がらせられたからな。

 そして滑り込んでくるメモ用紙。


『ごめん』


 謝るんなら初めからやるなよ……。まあ結果としては嬉しいんだけどさ。


 よっし、今度こそ風呂だ風呂。


 …………ん?ちょっと待てよ?


「風呂、どうするんだ……?」


 俺は少女を見て呟いた。






 初めに言っておく、俺はいわゆるロリコンではない。これだけは分かってもらいたい。そして今は深夜だ、だから女の子を外に追い出す事も出来ない。しかるべき機関に連絡するのが筋だが、説明のしようがない。下手をすれば俺が警察の御厄介ごやっかいになってしまう。


 というわけで今、クジラの少女はお風呂に入ってます。あ、もちろん先に俺が入ってからだよ?あと俺はシャワーで済ませたからな、変態的な話は一切ないぞ。


 まあそれであっても、彼女いない歴=年齢、な身としては女の子が自宅の風呂に居るというシチュエーションは何だか居心地が悪いものなのだ。たとえそれが、夜空で月を隣に置いて泳いでいる謎生物の人間体だったとしても。


 …………ところで、あの子とクジラは生物なのか?


 謎の物体が謎の原理で地球に接近してきて、謎の法則で影響を発生させず、関連する謎の少女がウチに現れた。謎しか存在しない、生物かどうかっていう次元の話じゃないのかもしれない。まあ、考えるだけ無駄なんだろうな~。


 ざばざば、じゃばじゃば、と風呂場から水音がする。あ、耳を澄ませて聞いてるとかじゃないぞ、普通に家事をしてても聞こえるんだよ!相当はしゃいでる感じだな、この音は。


「ん?」

ざぱーんっ!

「おうわっ!?」


 風呂場から水が、宙を流れてきた。龍が空を飛んでる姿、って感じで形容は良いのかな?そうそう、身体をうねらせながら飛んでく感じ。


 いや!そんな事はどうでもいい!逃げっ……がぼごぼぼ


 水中で身体がぐるんぐるん回転する。これは湯舟に溜めたお湯だ、暖かい。そんな事はどうでもいい、息が出来ないっ。リビングのど真ん中の空中で溺死とか、どんな名探偵でも事件解決不可能だ!


 お湯の水龍、それが渦巻く中心に素っ裸の彼女がいた。


 ん?エッチな話?そんなもんあるワケねえだろうが!こっちは溺死寸前なんだぞ!?見てる見えてる、じゃなくて回転し続けてるから一瞬だけ判別できるだけなんだよ!


 っていうか、マジで死ぬっ!こんな訳の分からない死に方は御免だ!


 思い切り手を伸ばして、女の子の手を掴む。


ざばぁ……

「げほごほっ、た、助かった……」


 渦巻いていた水龍はその動きを止めて重力に従う。俺はばたんとその場に倒れた。命の代償は水浸しのリビングと家具。冗談じゃないぞ、クソガキがぁ……。


『直す、キレイにする』


 メモ用紙が飛んでくる。

 漢字もカタカナも書けるのかよ、じゃあデトックスもカタカナで書け!そんな事を言う気力も無い俺は、ただうつ伏せでぐったりするだけ。そんな俺の周りで水が吸い揚げられ、濡れていた家電製品なんかも元の通りに乾燥する。


 超常の力、出すも戻すも好き勝手。こんな悪戯はもう御免だが、言って聞いてくれるかどうかは彼女次第である。


 裸だった少女の身はいつの間にか服に包まれていた。そうか、もともと服を着てたんだから、それも出現消失自由自在だよな……。


 そんな事を考えた所で、俺はよろよろと立ち上がった。

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