星のクジラと隣の少女
和扇
序章
出現の日
「…………」
俺は目を見開いて固まっていた。
憂鬱な仕事を終えて、いつものようにコンビニで夜飯を買い。憎たらしい程に明るい月に照らされながら、トボトボとぼとぼ歩き。三階建てのアパートの階段を恨めしく思いながら上り。
そしてガチャリと家の鍵を開けて帰宅した。
誰に送るでもない「ただいま」を独り言ちて、無駄に広い1LDKのリビングダイニングへと繋がる扉を開ける。キッチンの電気を付けて、夜飯の入ったビニール袋を置いた。さてレンジで温めようと扉に手を掛けた、その瞬間。
さっき目の端に移ったリビングの真ん中に、何かいたような気がした。
空き巣?いや、それなら俺が帰ってきた時点で、逃走するか襲い掛かってくるだろう。幽霊?いやいや、この建物も周りにも
じゃあ何だ?
恐る恐る、ゆっくりと振り返る。そして俺は固まった。
真っ白な髪に、真っ白なノースリーブワンピース。髪は背中に掛かる位の長さで、ボサボサっと癖が付いている。丸い緑の宝石?が付いた髪留めが横髪を留めている、片側二つで合計四つの緑玉である。なお、室内だからか、足元は裸足だ。
十三歳、十四歳といった所だろうか?その位の年の様にも見えるし、もっと上にも、もっと下にも感じる。何にせよ、百八十センチの俺より四十近く背が低く小柄だ。
ほっそりとした体格、手足はすらりと長くて美しい。シミ一つ無い白の肌、月明かりを受けてより一層輝いて見えた。
呆然。
俺はその少女をただ見ている事しか出来ない。理解不能な事象が起きると人間は固まるというが、それをいま体験していた。
少女は一体なんなんだ?今日の夜飯のカルボナーラ温めないと。何が目的で俺の家に?しまった酒を買い忘れた。いやそもそもどうやって中に?明日の朝飯用に買ったおにぎりを冷蔵庫に入れないと。
異常に対する疑問と日常を継続しようとする思考が、頭の中で混ざり混ざって渦を巻く。どうやっても答えが出るわけの無い、混乱の極みだ。
かさり
「っ」
キッチンの空きスペースに置いた、夜飯カルボナーラと朝食おにぎりが入ったビニール袋が音を立てる。それで一気に我に返って、俺は口を開く事が出来た。
「お、おなか、空いてる……?」
いや、何を口走っているのか。
ビニール袋、夜飯、朝飯。ご飯、お腹空いた、白い少女。ぐっちゃぐちゃの脳内が引っ張り出したのは、お腹空いた、だけだった。ああ、なんと緊急事態に弱い脳みそだろうか。
妙な事を口走った俺。全く別の方向を見ていた少女がこちらを見る。目鼻立ちがしっかりとしていて、人形の様な整った顔立ちだ。綺麗に透き通った緑色の瞳は、まだ照明が点いていないリビングの暗がりの中にあって、不思議と光って見えた。
少女の目とかち合った俺の視線。そのまま彼女の緑の輝きに吸い込まれ、決して出てくる事が出来ない状態となる。それはまるで、ブラックホールに吸い込まれた光のようだ。
かさかさ
置いてあるビニール袋が音を立てる。今度は自発的なものではない、誰かに揺らされた音だ。
すぅっ、と何かが俺の横を通り過ぎる。透明な膜につつまれた白い三角形。朝食用に買っておいた、コンビニおにぎりの中で一番安い塩むすびだ。それが空中を滑らかに、水平移動していく。
物理法則も何もあったものではない。コンビニおにぎりは
不可思議な移動は、俺と少女の立つ位置の真ん中で終了する。ピタリと空中で静止したおにぎり。その包みが自動的にピリピリと破かれる。何という事だ、今の包装には自動開封機能が付けられていたのか。
ピィッと最後の縁まで切り取られた包みのビニール。それは空中に止まったまま、中身の白い三角形がすっと上昇する。昨今のコンビニおにぎりは、親切に頂上が包装から顔を出してくれるように設計されているらしい。
そして俺は見開いた目を更に剝く事になる。
三角形の頂上が、突然消失したのだ。それはまるで、何かに齧り付かれたように円弧状に。
ぱく、ぱく、ぱく。多分擬音を付けるなら、こうだろう。五、六回の消失で、遂に白い三角形は無形となった。
手の届かない所にあった物を動かせる。口を付けずに食べられる、いや食べてるのかどうかは分からないが。言葉が通じているのかどうなのか、全くもって分からない。
怪異妖怪と遭遇した時の人間の心境を味わっていた。
映画なんかでは『恐ろしい!キャーッ!』な感じだが、それとはまるで違う。とにかく息苦しい、呼吸が浅くなって。相手から目を離せず、身体が一切動かない。
次第に息が荒れ、フーッフーッ、と小さく口から音が出る。この少女は一体何者なのか、空き巣強盗迷い子妖怪、どれでも正解で不正解な気がする。
ぴりり
今度はビニールじゃない、リビングの机の上だ。そこに置いていたメモ用紙が破かれて、一枚の紙が宙に浮いた。
『くじら』
くじら、クジラ、鯨?
一瞬のうちに紙に生じた文字。アレだ、レーザー刻印でジィジィと焼き付けられる感じ。それが全部一気にやられて、瞬時に文字が現れた。
いや、それは良い。いや良くはないが、置いておくとして。
くじら、とは何なんだ?
窓から差し込む月明かりがより強くなる。夜の暗さが和らぎ、光の白が明瞭に。雲が晴れたにしては、なんだか明るすぎる気がする。
プン……
「っ!?」
突然の電子音に身体がビクッと跳ねる。その音の元は電源を入れなくなって久しいリビングの置物、テレビからだった。全くの無音だった室内に、映像の光と人の声が送り込まれる。
『緊急速報です。先程、NASAおよびJAXAから発表があり、地球周回軌道上に突然謎の物体が出現したとの事です』
ニュースキャスターは早口でそれを告げ、映像が屋外に切り替わる。
『日本時間二十二時二十二分、月と同じ軌道上に出現した物体です。肉眼でも確認できる、月よりも大きな物体。魚……いえ、鯨とそっくりです』
映し出されたのは、真っ白なシロナガスクジラ。
だがその目は大きな緑の
映像は白い鯨を映したまま、音声はスタジオのキャスターに戻る。
『NASAは『
鯨。
くじら。
目の前の少女が、不可思議な方法で示した日本語とテレビからの情報が繋がる。
『JAXAの記者会見が始まるようです―――』
詳細な事がテレビから送られる中、俺はクジラの少女から目を離せなかった。
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