第32話 キュッリッキ後悔する

 キュッリッキは記憶と言う名の夢の中で、再び過去と向き合っていた。


(こんなの……もう、思い出したくないのに…)


 忘れ去ってしまいたい自分の過去。悲しくて、苦しい思い出しかない。

 どんなにもがき拒絶しようとしても、思い出は容赦なくキュッリッキを襲う。そして再び、辛い思い出の一つがゆっくりと浮き上がっていった。




 アイオン族の子供にとって、7歳という歳は特別だ。

 7歳になるまでは背に生えた翼が育ちきれていないため、自ら羽ばたいて飛ぶことが出来ない。その為翼は出しっぱなしになり、翼を構成する骨や膜などがその間にある程度育つ。そして7歳になると自力で地面すれすれを飛べるようになり、訓練を重ねて自由に飛べるようになる。出し入れも7歳になると自在に可能になった。

 7月7日はキュッリッキの誕生日だ。生まれて7年たった今、ようやく翼をしまうことができる。この日をどれほど待ち望んだことだろう。

 鏡の前で翼が溶けるように消えていく様を、まじまじと見つめる。

 背に生える翼に「消えろ」と念じただけで消えていく。そして「生えろ」と念じると、再び翼は背に生えた。

 普通に育っている右の翼と、生まれつき育たない無様な左の翼。どちらも同じように。


「どうせ飛べないんだから、ずっとしまっとこ」


 いっそ、なくなっちゃえばいいのに、と思う。

 この左の翼が原因で、キュッリッキは両親に捨てられたのだ。そのことは、修道院の子供たちも修道女たちも口にしている。

 片翼で親にまで見捨てられた惨めな子だと。そして虐められる。

 でも今日から翼のことを気にせずいられる。


「出していなければいいんだ。見えなくすれば、いつか誰も気にしなくなる」


 そう呟くと気持ちが少しラクになり、キュッリッキは天気のいい外へ軽い足取りで駆け出した。




「無様で飛べない病気がきたー」


 庭に駆け出してきたキュッリッキを、一人の子供が指をさして罵った。それに気づいた他の子供たちも、一緒になって罵り始める。

 ズキッとした痛みが胸に広がり、キュッリッキは足を止めると俯いた。

 20人ほどの子供たちが、何も言えずに下を向いたままのキュッリッキを取り囲んで罵り嘲笑った。

 何もない修道院では退屈だ。子供たちは退屈を紛らわす”遊び”の一つとして、キュッリッキを虐めている。

 大人である修道女たちまで露骨にキュッリッキを虐める。それを見ている子供たちには遠慮がなかった。何故なら、虐めていることを咎めたり怒ったりする大人が、ここにはいないからだ。

 遠慮の欠片もないあまりの暴言に辛くなり、突如キュッリッキはその場を駆け出した。前方に塞がっていた一人の男の子が、体当りされて後ろに倒れ込む。


「なにすんだ病気バカ!」


 仲間に助け起こされながら、倒された男の子――アルッティが叫んだ。


「アイツ生意気だ! 追いかけろ!」


 おもしろがった他の子供たちは、その声に弾かれるようにキュッリッキを追いかけ始めた。

 それほど広くもない庭を駆けていけば、目の前はすぐに崖だ。

 キュッリッキは慌てて立ち止まり後ろを振り返る。子供たちはすぐに追いついた。

 文字通り崖っぷちに立たされ、キュッリッキは怯えて震えだした。ここから落ちれば間違いなく死ぬ。翼は片方しかない、飛べないのだ。足から冷たいものが身体を駆け抜けていく。

 怯えているキュッリッキの様子を、子供たちは面白そうに見ていた。やがてアルッティが追いついてきて、威嚇するように一歩前に出た。


「おまえ、こっから飛び降りて、飛べるところを見せろよ!」

「えっ」


 アルッティはビシッと崖の外を指差す。


「片方だけは翼あるんだろ。だったら飛べることをショウメイしてみせろよ」

「そーだそーだ、やってみろー」


 子供たちは面白がってはやし立てる。


「無理だもん!」


 キュッリッキは怯えながらも必死に大声で叫んだ。言われた通りやれば、死ぬだけだと判っている。

 その態度が癇に触ったのか、アルッティがイラッとしたように口の端を歪めた。


「ぼくたちは飛ぶことができるアイオン族なんだぞ! おまえもアイオン族なら、やってみろっていってるんだ!」


 首を振って否を唱えるキュッリッキを、子供たちは範囲を狭めて詰め寄った。

 やがて、苛立ったアルッティが手を伸ばし、キュッリッキの胸を突いた。

 アルッティは軽く押したつもりだった。


「!?」


 キュッリッキの身体が後ろによろめき、踵が崖を踏み外し、小さな身体がふわりと宙に浮いた。その突然の光景に、はやし立て続けていた子供たちの声が一瞬で止む。

 突き飛ばしたアルッティが大きく目を見張る中、キュッリッキは崖から真っ逆さまに落ちていった。




 ハッと目を開け、キュッリッキは荒い息を何度も何度も吐いた。目からは涙がとめどなく流れ落ち、胸が苦しくてたまらない。

 そうしているうちに、今は夢ではなく現実なのだと、ようやく認識できてきた。


「フェンリル……フェンリルどこ?」


 涙声で、弱々しく相棒の名を呼ぶ。

 長椅子に置かれた青い天鵞絨張りのクッションに寝ていたフェンリルは、キュッリッキの声に目を覚ますと、素早く駆け寄りベッドに飛び乗った。

 白銀の毛に覆われた顔を、キュッリッキの頬に労わるように何度も摺り寄せる。


「フェンリル…」


 フェンリルの頬ずりに安堵し、キュッリッキの呼吸もだんだんと落ち着いてきた。


「幼い頃のことを、夢にみちゃってた…」


 独り言のように呟くキュッリッキの言葉に、フェンリルはそっと耳を立てて聞き入った。


「修道院の崖から突き落とされた時のこと。あの時フェンリルが助けてくれなかったら、アタシ、死んじゃってたよ」


 アルッティに突き飛ばされ、崖の外に弾かれたキュッリッキの身体は、風に巻き上げられ宙に浮いたあと、真っ逆さまに落下していった。

 落ちていくときキュッリッキの頭の中は真っ白で、何一つ考えられていなかった。轟轟と唸る空気の音と肌を貫いていくような冷たさ。恐怖で塗り固められたように動かない身体。

 もうダメだ! そう思った瞬間、小さな身体は地面に叩きつけられることもなく、柔らかなモノの上でふわっと跳ねて、座る姿勢でそっと着地した。

 しばし茫然としたあと、急に素足に感じるくすぐったい感触を、小さな掌で何度も摩るように触れる。

 涙で濡れた顔をきょとんとさせ、目を何度も瞬かせた。


「ふぇ……りる?」


 囁くように言うと、獣が喉を鳴らすような声が辺りに轟いた。

 一つしゃくり上げたあと、周りをゆっくりと見渡す。

 目の前には屹立した岩と、後ろには遠く眼下に広がる緑の大地、足元は白銀の広大な地面。

 地面に手を押し付けると、柔らかな温かさが掌に伝わってきた。この感触は紛れもなく――


「フェンリル、おっきくなった」


 キュッリッキは毛並みにボフッと抱きついて、その感触を頬で感じて小さな笑い声をあげた。

 仔犬の姿しか見せていなかったフェンリルが、かりそめの姿を解いて巨狼の身体で顕現したのだ。フェンリルの本体を知ったのは、この時が初めてだった。


「フェンリルがあんなにおっきな狼だって知ったのも、あの時だったね。ずっと今みたいに仔犬の姿をしていたから」


 フェンリルはキュッリッキの顔のそばで身を丸くして、じっと見つめている。

 宝石のような水色の瞳には、労わるような優しい光が揺蕩っていた。


「ずっと一緒に居てくれたから、アタシ生きてこられた」


 突き落とされ一命を取り留めたキュッリッキは、そのままフェンリルと一緒に修道院を黙って出た。戻る気にはなれなかったからだ。以来、一度も近寄っていない。


「アタシを突き飛ばしたあの子は、少しは反省してくれたのかな…。気に病んでくれたかしら」


 多分、そんなことはもう忘れてしまっているだろう。あの修道院のなかで、キュッリッキは片翼の異端だったから。

 ふと隣を見て、キュッリッキは表情を曇らせた。隣に寝ていたベルトルドがもう居ない。今は朝7時を過ぎたところだ。出仕のために準備をしているか、朝食をとっているのだろう。

 夜中のことを思い出し、キュッリッキは切なげな溜息を吐き出した。混乱していたとはいえ、ベルトルドに向かって酷い言葉を投げつけた。酷い態度を取った。そして、ベルトルドの困惑していた表情かおを思い出す。それがチクリと胸に突き刺さった。


「なんてことしちゃったんだろ…アタシ」


 自己嫌悪の波が足元からザワザワと押し寄せてきて、情けない気持ちを乗せた息を深々と吐き出す。

 同じ失敗を繰り返さないようにと、自分で決めたはずなのに。また同じことをやってしまった。それも、後ろ盾であり、命の恩人であるベルトルドに向かってだ。

 更に質が悪いのは、ベルトルドは何もしていない。泣いていた自分を心配してくれていただけなのだ。それなのにベルトルドに向かって、たくさん暴言を吐いた。


「今まで失敗してきたことを、また繰り返した…。アタシのこと好きだって言ってくれてたのに、あれじゃもう嫌われちゃったよね。嫌われて当然の振る舞いをしたんだもん」


 アイオン族の中で自分がどんな酷い目に遭ってきたのかベルトルドは知らない。ライオン傭兵団のみんなも――ヴァルトだけは大体は知っていたが――知らないことだ。だからあんな態度をとられて、きっと腹が立ったに違いない。

 過去のことをちょっとでも思い出すと、心がコントロール出来なくなる。駄々っ子以上に感情が乱れ、周りが見えなくなった。そして手がつけられなくなるほど荒れて、気が付けば人は離れて居場所を無くしていた。

 いつもああして、誰とも破局するのだ。その後激しい後悔と情けない気持ちでいっぱいになる。またやってしまったと、後悔するばかりで。


「また、また、また、また…。またを何度繰り返すつもりなんだろう? 後悔する前にどうして自制できないのかな。同じ反省までも繰り返してる」


 忸怩たる思いに、気がどんどん重くなった。


「フェンリル、またハーツイーズに戻ることになるかも。ごめんね…」


 キュッリッキを励ますように、フェンリルは鼻をクンクンと鳴らす。


「”ライオン傭兵団ここ”でうまくやっていけそうな気がしてたんだけどなあ…」


 今まで出会ってきた人達と違う感じがする。そう直感していた。


「今度こそ、頑張ろうって決心したはずだったのに…」


 怪我で弱気になっていたのがマズかったのだろうか。自分に色々言い訳を考えても、もうあとのまつりなのだ。

 横たわったまま、明るい室内を見渡す。

 立派な天蓋付きのベッドで、大人が何人寝られるんだろうと数えたくなるほど広く、その足元の向こう側もとても広い部屋だ。

 大きな窓を覆っていた天鵞絨のカーテンはタッセルでまとめられ、白いレースのカーテンだけが窓を覆っている。そこから明るい陽射しが差し込み、天気が良いのが判った。

 広々とした室内は白と青を基調としていて、落ち着いた雰囲気と可愛らしい雰囲気が同居する素敵な部屋だ。さりげなく配置されている置物や花、カーテンやクッション、テーブルクロスに調度品は、どれもキュッリッキの大好きなデザインや色使いで整えられている。

 青色は寒々しい印象を与えるが、水色や金がアクセントとなって、むしろ愛らしい雰囲気になっていた。

 キュッリッキは青色が大好きだ。

 自らの翼で翔けることのできない空の色。水色から青色に深みを増していく、高い空の色。憧れる空の色。

 青色が好きだと言うと、大抵のひとは海の色だと言う。しかしキュッリッキにとっては、空の色が大好きな青色だった。

 あらかじめ勝手にキュッリッキの思考を読んでいたベルトルドが、指示して用意させた部屋であることは知らない。


「大好きな青色がいっぱいの、素敵なお部屋だね」


 ずっと居たいと思えるような部屋だが、今日できっと追い出される。そう思うと残念だった。


「あんなに優しくしてくれたベルトルドさんでも、きっと、怒っちゃったよね」


 誰でもあんな酷い言葉の数々を叩きつけられ、不快な態度をとられれば怒って当然。自分だって怒る。


「ハーツイーズのおばちゃんたち以外で、アタシに優しくしてくれた大人だったのに…。アタシってばホント、我慢強さや協調性が足りナイよね」


 フェンリルに向かって呟くと、フェンリルは小さく首をかしげるだけだった。


「辛い過去を持ってるのは、アタシだけじゃない。誰だって何かを抱えて耐えているのに。――判ってるのに、上手に自分を抑えられない。つい、自分だけが特別酷いんだ、みたいに思っちゃうのかな…。だから暴走しちゃうのね、きっと」


 世の中には親から愛情を注がれない不幸な子供がいっぱいいる。捨てられた子供だって、赤ちゃんだっているのだ。だから、自分だけが辛いと思ってはいけない。幼い頃から自らに言い聞かせている。

 あの修道院にいた孤児たちも、背景はどうあれ親がいないし、親の愛情に恵まれていない。自分だけじゃないのだ。

 そう思っていても、親のことに触れられたり過去を思い出してしまうと、感情のコントロールが効かなくなる。自制することが難しい。


「追い出される前に、もう一度ベルトルドさんに会えるかなあ…。会ったら、ごめんなさいって謝るの」


 強さを増していく眩しい朝日とは反対に、キュッリッキの心には暗雲がたれこめていった。



 * * *



 キュッリッキが夜中のことで後悔に頭をぐるぐるさせている3時間ほど前、アルカネットにしょっ引かれたベルトルドは、総帥本部の執務室の中にいた。

 ベルトルドは猛烈に不機嫌を表情に貼り付けたまま、デスクの前でふんぞり返る。


「確かに俺は仕事をサボった。たった、1日だけ、サボった」


 否1日半か、と訂正しながら腕を組み、仁王立ちして目の前のデスクの上を見下ろす。


「だからといって、この書類の量はなんだ? たった1日半だけしかサボってないぞ!? 俺は勤勉家なんだ。真面目に働いて働いて働いて、残業することだって厭わないんだ。毎日が残業天国の時間外労働だぞ! なのにたった1日半サボっただけで、これはないだろう?」


 これ、と白い手袋に包まれた指で、広いデスクの上を全て覆い尽くすほどの書類の山脈を差した。必要以上に”たった”を特に強調する。


「アナタ気づいてないでしょうが、毎日さばいている仕事が、この量なんです」


 真横に立ち、アルカネットが涼しい顔でしれっと答える。


「これは全部、軍関係ですね。国政関連は宰相府でしょうか」

「……そっちはリューに押し付けてある」

「アナタのハンコを、リュリュが押してるのですか…?」

「ウン。俺でなければ無理な決済だけは保留させてある」

「それでこの国が成り立っているのが不思議でなりませんね」

「今回だけだ、今回だけ。それに、お前はあまり知らないだろうが、リューは俺より政務に向いてるぞ。俺の秘書官なんてやってるが、大臣でもやらせたほうがよほどこの国のためになるくらいにな。あいつセンスあるんだよ」

「ふむ。まあ、リュリュはターヴェッティで3位卒業でしたしね」

「俺が首席、お前が次席、リューが3位、上位を3人でとってやったもんな」


 ふふんっとベルトルドが得意そうに笑むと、アルカネットは肩をすくめた。


「昔話よりも、早く取り掛かりなさい。現実を受け止め今すぐ始めないと、同じ量の書類があと3時間後には、ここに運ばれてきますよ?」

「ンぐ……」


 眉がヒクヒクと引きつって、ベルトルドは駄々っ子のように口をへの字に曲げた。


「今日だけは手伝って差し上げますから、さっさとお座りなさいな」


 アルカネットは書類を手に取ると、テキパキと選別し始めた。

 ベルトルドは不承不承椅子に座ると、拗ねた視線をアルカネットに向ける。


「いい歳したオッサンが気色悪い。はい、すぐに目を通してハンコ押しなさい」

「……おう」


 書類のひとまとめを目の前に置かれ、うんざりと溜息を吐く。そして引き出しからハンコを取り出し、黙々と押す作業に取り掛かった。




 書類の山が3分の2ほど片付いた頃、アルカネットが紅茶を淹れてきてデスクに置いた。白磁のティーカップから、温かな湯気と上品な香りがたちのぼる。

 ベルトルドはティーカップを手に取ると、爽やかな匂いを楽しみ一気に飲み干した。

 アルカネットは決済された書類を、リュリュが使っているデスクに置く。


「なんとか間に合いそうですね」

「うむ。さすが俺」

「さすが私のアシスト、ですよ。ところで、今日はどこかに時間を作ってもらえますか? シ・アティウスと私から、例の報告をします」

「ああ」


 すっかり忘れてた、とベルトルドは顎をさすった。


「俺もお前にちょっと相談があるんだ。――今日は御前会議が昼食後にあるんだったな…。そのあとも軍のほうで会議か」


 壁にかけられた時計を睨みつけ、首をかしげる。


「そうだなあ……夜まで空きそうもないが、帰る前でもいいか?」

「判りました。シ・アティウスにもそう伝えておきます」

「うん」


 カラになったティーカップを手に取ると、プラプラと揺らしておかわりを催促する。


「はいはい」


 アルカネットはティーカップを受け取り、執務室に設えてある給湯スペースに向かう。

 紅茶を淹れるアルカネットの後ろ姿を見つめながら、


「今夜は、リッキー口きいてくれるかな…」


 小さくぽつりと、不安そうに呟いた。

 荒れたままの状態で意識を失わせてから、まだ話をしていない。

 目を覚まして、自己嫌悪に陥ってはいないだろうか。そのことを考えると、心配でため息しか出てこなかった。

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