ADA

【プロローグ1】奥村香凜

 四月中旬、山口市内。

 閑静な住宅街を一人の少女が走っていた。

 身長は一五〇センチ程度と小柄で、手足はすらっと細く伸びている。

 真っ黒のセーラー服に身を包み、黒のハイソックスとローファーを履いている姿は、どこにでもいる女子高生そのものだ。

 肩に掛かるかどうかという長さのストレートの黒髪が、走る動きに合わせてふわふわと上下する。

 鋭い視線を周囲に向け、何かを探している。

 左耳にはバイクヘルメットに装着するインカムのような形をした機器が装着されていた。


 辺りには人影ひとつ見当たらない。

 耳に装着した機械のマイクに向けて少女が話し掛ける。

「本当にこの近くにいるんですか?」

 機器のイヤホンの向こうから低い男性の声がした。

『ああ、目撃情報からするとこの周辺で間違いない。何か痕跡はないか?』

 家々の間に視線を走らせつつしばらく走り、ある異変を見つけ少女は立ち止まった。

 街路樹が一本薙ぎ倒されている。

「所長、これは……」

 左耳の機器に内蔵されたカメラがその様子を捉える。

『奴の痕跡と見て間違いないだろう。この様子だと悪い予想が当たっているかもしれない』

「……てことは、リミッターは外してもらえますよね」

『その点は心配ない、既に解除済みだ。どうか用心してくれ』


 少女は、一度大きく息を吸って吐いて、周囲を見渡した。

 住宅街なので、三階建のアパートがこの辺りで唯一高さのある建物だった。

 軽く膝を曲げ、とんっと跳躍した少女は軽々とそのアパートの屋上に降り立った。

 高い場所から周辺を見渡してみる。

 建物と建物の間を、一瞬黒い塊が横切ったのを少女は見逃さなかった。

「所長、東北方向百メートルあたりにそれらしき影を見ました。接近してみます」

 そう告げると家の屋根を跳び移って移動した。


『ああ、あれが目標で間違いない』

 その所長の声を聞きながら、少女は戸建の屋根の上から黒い物体を見下ろしていた。

 それは常識外の巨体を持った熊だった。のしのしと住宅街の中を歩いている。

「私、こんなのを相手にしたことはないんですけど……猟友会の手を借りたりできないんですか」

『彼らの散弾銃では有効打にならなかった。至近距離まで近づけば、あるいは多少は効果があるかもしれんが……危険すぎる』

 少女は少し困った表情を作った。

「危険すぎるのは丸腰の私だって同じだと思いますけど……」

『情けない話だし申し訳なく思うが、君一人の方が安全かつ迅速に事態を収束できるというのが我々の見解だ。君の力なら何とかなると私は信じているよ』

「簡単に言ってくれちゃって……」

 小さくため息を吐き、熊の後ろに降り立つため屋根から跳んだ。

 降下中にふと、屋根の上からそのまま奇襲をかけた方が良かったのではないかと思い至り、少し後悔した。

 少女が地上に着地した時のストンという音に、熊はぴんと耳を立てて反応し少女に向き直った。

 体長三メートルはあろうかという巨体と向き合うと凄まじい迫力だ。

 さてどうしたものか、とりあえず鼻っ柱を思い切り殴ってやれば降参してくれるだろうか、などと考えを巡らせていると、熊が口をもごもごさせて、唾液を吐き出した。

 その唾液は一直線に少女めがけて飛んできた。さっと肩を引いて避けると、唾液は後ろの電柱にびちゃと当たった。

 電柱のその箇所からジュウウウという妙な音がするのを聞き、思わず少女は振り返った。

 電柱からは、煙とも蒸気とも言えない気体が立ち登り、一部がどろっと溶けている。

「所長、やっぱりこいつ……」

『間違いない、ADAだ』


 異常発達生物、Abnormal Development Animalの頭文字をとってADAエイダと呼ばれる生物が見つかったのは二十年近く前。

 動物の中でとりわけ身体能力が高い個体を調査していたところ、体の一部の部位が異常に発達していたり、そのことにより特殊な力を備えるに至ったものが発見された。

 見た目こそただの動物だが、その特殊性は他の動物と明らかに一線を画すことから、それらはただの動物とは区別されADAエイダという名を持つことになった。


「ふーん、モノを瞬時に溶かす唾液を分泌する能力……ってことなのかな」

 そうつぶやき顔を熊の方に戻そうとしたところ

「え」

 視界の端で、黒い塊が一瞬で目の前に迫って来ていることを把握した。

 熊はその巨体からは信じられない速度で頭から少女に突っ込んできたのだ。

 腹部に猛烈な衝撃を受け、視界がぐにゃと歪む。

 周囲の景色が高速で流れたと思った瞬間、今度は背中に二度衝撃を受けた。一度目は軽く、二度目はずっしりと重く。

「……かッ……」

 一瞬、呼吸が止まる。

『奥村!おい、大丈夫か!』

 イヤホンの向こうで男が叫んでいる声が聞こえた。

 奥村と呼ばれた少女は、熊の頭突きを腹部にもろに受けて吹き飛び、住宅のフェンスを突き破ったあと壁に激突して止まった。

 壁に少しめり込み空中で一瞬静止した体が、ずるずると下がり地面に尻をついた。

「いててて……標的から視線を外すべきじゃないですね……いい勉強になりました」

 壁にもたれかかって座った状態の体を起こそうとしながら、どこかおどけた口調で言う。

 そこに熊が追撃を加えに飛び掛かってきた。

 奥村は瞬間的に脚部を筋力増強パンプアップした。

 蹴り上げたローファーのつま先部分が、目前に迫る熊の腹にズシッとめり込み、その巨体を五〇センチほど浮き上がらせた。


 ADAエイダと呼ばれるのは、いわゆる動物の見た目をしたものだけではなかった。

 非常に稀なことではあるが、人間の中にも同じような存在が発見されたのだ。奥村という少女もその一人だ。


 その蹴りは決定打にこそならなかったものの、予想外の反撃を食らった熊はくるりと尻を向けて逃げ出した。

『おい、奥村。怪我はないか?』

「ふぅ……びっくりしたしちょっと痛かったですけど、骨が折れたりはしてないようです。大丈夫ですよ」

 すっくと立ち上がった香凜は呼吸を整える。

「逃げ出しました。追います」

 そして熊の後を追いかけた。


 この周辺の住民は既に避難済みだ。

 だがあまり大きく移動されると、避難命令区域から出てしまう。

 今のあの熊だと、出会った人間をパニックのまま無差別に襲ってしまうかもしれない。

 相変わらず巨体に似つかわしくない速さで走る熊との距離を少しずつ詰めながら、香凜は追いかける。

 と、その時熊と自分の進行方向、建物の影から人影が現れた。香凜の通う高校の制服を着た男子の姿。

 馬鹿な、まだここは避難命令区域内だ。なぜこんなところに人が。

 少年はこちらに気づき目を丸くしている。

「くそっ!」

 小さく悪態をつき、足の筋力をさらに増強させる。すらっとした細い足に血管が浮き出ている。

 ぐっと腰を落として姿勢を低くし、そのまま極限まで体を前傾させる。鼻が地面につくかどうかというところで、地面を蹴って跳躍。

 あまり高度は出さずに、地面すれすれの低空を弾丸のように飛行する。

 熊を追い越したところで、地面に手と足をついて急ブレーキをかける。ジャリジャリと派手な音を立てながら、ローファーの底と手の皮がアスファルトに削り取られる。

 少年の前で体が制止した。

 顔を上げると目の前で熊が口を開き飛び掛かってくるところだ。

 今度は腕の筋肉を増強し、鼻っ柱目掛けて拳を打ち込んだ。

 グァウッと鳴いた熊が仰け反り後ろに数歩下がる。

 だが今度は逃げ出すわけでもなく、こちらに対峙した状態を維持している。

 口がモゴっと動いたのが見えたその瞬間、足の筋力を増強し地面を力一杯踏みつける。

 ボゴッと音がして地面がめくれ、アスファルトと土の壁が目の前にせり立つのと、熊が唾液を吐き出すのは同時だった。

 盾となった土に唾液がべちゃっと付着し、ジュウウと音を立てている。

 香凜は目の前にできた壁を力一杯殴りつけた。

 細かく飛び散った泥の粒と粉々になったアスファルトがすぐ向こうの熊に降り注ぐ。

 土の目潰しとアスファルトの銃撃で熊が一瞬無力感したその時、香凜は既に跳躍し空中にいた。

 そして落下の勢いを乗せたまま頭上に踵を落とした。

 直撃して脳を強く揺らされた熊は、たまらず白目をむいて地面に倒れ伏した。


「目標を無力化しました」

 香凜がそう無線で連絡してからほどなくして、捕獲班が対ADAエイダの特殊檻を運んできた。

 腰を抜かして尻餅をついたまま、その様子を少年は見上げていた。


 ひとまずは危機が去ったのを確認した香凜は少年につかつかと歩み寄り

「大丈夫?怪我してない?立てる?」

 と手を差し伸べた。

 真っ黒なセーラー服から伸びるその白く小さい手のひらと手の甲の指の付け根から、つうと血が流れていた。

 ぱたた、と音を立てて落ちた血が、地面に紅く美しい丸模様を描いた。

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