なりたい自分になるために

@puroa

わがまま、そして制服

「あ。先輩の制服、掛けっぱになってる……」


 明らかに素面でない科学教師に頼まれ、理科室に実験器具を運んで来た女子生徒。扉を開けて吹き抜ける風を感じながら無人になった理科室で、椅子に掛けられたままのブレザーを見てそう呟いた。

 理科室には彼女一人。他は誰も居ない。さっき彼女が入って来るとすれ違いに出て行った、名前も知らない上級生が最後だったらしい。


 誰も居なくなり、足音も話し声もかなり遠くで疎らに響くばかり。体力のあり余った高校生がバカ騒ぎする学校で急に別世界に投げ出されたようで、居心地が悪くなっていく。

 普段は真面目な学級委員として、男子たちを𠮟りつけている彼女がだ。


 心臓が早鐘のように鳴り響く。人が居らず体重を掛けられることがなくなった床は、襲来した彼女の靴底にギシギシと悲鳴を上げる。

 それすら聞こえぬほど頭の中を心臓の鼓動が鳴り響き、仄かに頬を上気させた。その歩みはおぼつかず、しかし真っ直ぐと放置された制服へと向かう。


 きょろきょろと首を振って周囲を確認する。理科室には誰も居なかった。




 ***




「やぁ八宮。この箱を理科室まで運んでおいてね」


 終業のチャイムが耳の奥に残る折。

 教室の扉を蹴飛ばすようにやって来た職員室は、まだ人の出入りによる扉の開閉音が小煩い。普段の教室と比べれば不自然なくらい縦に長く、奥の奥まで人がごった返している。

 彼女に用があるのは、その中間くらいにある机。その机に向かう教師が、学級委員としての仕事を果たそうとする彼女に指示を出した。

 化学を担当する教師らしい白衣に身を包んだ中年の女が指差すのは、白色のプラスチックケース。

 白といっても半透明で、表面を透けさせたケースの中には、ガラス製の実験器具がところ狭しと詰まっている。


 それを見て、八宮と呼ばれた女子生徒は深くため息を吐いた。


「またですか」


 学級委員でもある彼女は不満げな言葉を漏らした。

 理科の授業がある日はその都度呼び出されるので何となく察してはいたが、回数を重ねれば尚の事である。

 学生なら誰しもが抱えるだろう時期的な不安が、彼女の中で、ある種の焦りとともに増大していく。


「また実験なんですか? もうすぐテストもあるのに、前回も前々回も実験ばっかり……ただでさえ男子たちはサボりがちなのに」


 八宮の眼差しには不満げな色が浮かぶ。

 もう高校生になってしばらく経つのだから、何か科学の授業でも講義らしい講義を受けてみたい。彼女が真面目なことを差し引いても、高校生としては当然の願望ではないだろうか。

 教師としては、サボるからこそウケの良い実験を選んでいるのだが、それを口に出すほど彼女も愚かではない。


「ふふ。次の実験は中和滴定だと、以前から予告していただろう。実験の有無程度で大人ぶるのはよし給えよ」

「誰が――」


 誰が、その度に手伝ってやっているのだと言おうとして、彼女は寸でのところで口を噤んだ。此処が職員室であるということを忘れてはいけない。真面目な委員長である彼女が教師のたまり場で騒ぎを起こすなど、言語道断である。


 苛立ちが顔に出始めていた頃だ。既に何人かの教師がこちらを見ている。見透かしたようにニヤニヤしているのが、余計ムカついて。


「……失礼します!」


 意地らしくそう言って、八宮は職員室を出て行った。




 ***




(――全くもう! 何なのよアイツ)


 両手にかかえた、職員室から出るときに預かったプラスチック籠がガシャガシャと音を立てている。その音は贔屓目に見てもかなり大きく、怪奇音のように甲高い音は、中身が何か知らなくても不安になってくる。

 だがガラスの実験器具がこの程度では割れないことを彼女は知っている。似たような道具を、もう何度も運んできたのだから。


 八宮は俯き加減で進んでいく。そのまま廊下を曲がり、階段を一段ずつ上った。一つ上の階に上ってそのまま廊下を突き当たれば、目的地の理科室に辿り着く。


 だが曲がる直前、誰かの肩にぶつかりそうになる。

 大きい。上級生だろうか。いや、高校生にもなると身体つきにも違いが出てくるだろうから、そうとも言えないか。


 いずれにせよ、直前で事なきを得たが、相手が避けてくれなければ危うく事故るところだった。相手に感謝しなくては。

 そう思って顔を上げて、相手の顔を見ようとする。


「……ん、あれ。八宮じゃん」

「うひゃば!? せっ、先輩!? どうしてここに」


 目の前に居たのは、八宮の先輩だった。格好良くて成績も良い、憧れの先輩。

 優美で家も近所に住んでいるから昔から面倒を見てもらって羨ましいと、友達に何度も言われてきた。すらりとした細身の長身に、カッターシャツがよく映える。

 会えると思っていなかった相手に会えて、彼女の口から妙な声が出てしまう。


「さっき、化学の授業、だった、から……あぁ。次お前らか」


 慌てふためく八宮と対照的に、先輩である少年は落ち着いている。穏やかな微笑を浮べていていつも余裕のある姿に、八宮は何もなくても頬を赤らめてしまう。


 そんな憧れの先輩の前にいるのに、八宮は胸の辺りがキュウ、と閉まる居心地の悪さを感じた。

 自分に、こんな風になれるのかと。

 もし自分が三年生になったとき、こう成れるビジョンが一切浮かばないから。


 私と先輩とじゃ、人望に雲泥の差がある。成績が落ち始めているだけでなく融通も利かない。そんなのだから、いつまで経ってもクラスのみんなに信用してもらえない。

 人としても彼女としても、私はダメだ。


「一年は、塩原だよな。うらやましい……昔は俺もよく、扱いてもらってた」

「あ、あは……そうなんですね! いや~授業だって、分かりやすくていいですよね……」


 白衣の利か担当の教師の名前を出して、思い出を語る先輩。あぁダメだ。本当は、後輩の自分から話題を出していかなければならないのに。

 いつまでも気を遣われているから、自分が楽しいんだということに思い至れない。


「……」


 話していて段々、辛くなってくる。


 好きなのに。


 いまではもう、好きと呼ぶことさえ許されなくなるほど差が広がってしまった。身長差だけじゃない。人間としての差だ。


 こんなのじゃ、いつまで経っても先輩の隣には――。


「それ、手伝うよ。貸してみな」


 黙り込んでしまった八宮に、先輩はそう言った。八宮がもっている籠を指差して、その口元は朗らかに笑っている。


「え」


 ぽかんと馬鹿みたいに口を開けた八宮は、一瞬何を言われたのか理解できなくて。一瞬遅れて理解した後、


「え、えぇいやいや! 本当に大丈夫です‼ これくらい全然運べますって‼ 昔のままじゃないんですよなに言ってるんですか」


 訳が分からなくなるほど大きな羞恥心がぶり返してくる。そのまま先輩の隣を無理矢理通り過ぎて、全部なかったことにしようとする。

 無かったことにしてしまえば、嫌われるのを遅らせたような気分になれるから。先輩のやさしさに甘えられるから。


 後ろから声が聞こえる。


「分かんなくなったら……また一緒に勉強しよ。昔みたいに、さ」


 八宮が無かったことにしても、この先輩は全部覚えている。彼はそういう男だ。




 ***




「だ、誰も……見てない、よね」


 その数十秒後。八宮は荷物を運んできた理科室にて、先輩の制服を発見した。

 発見するや否やそそくさとあたりを見廻し、いくらかキョドりながらいそいそ制服が掛けられた椅子へと近づいていく。周囲に人がいないか見渡しているのだろうが、いたとしたらもうその挙動だけでアウトである。それくらい、振る舞いがコソ泥のそれだ。


 変なものを包くようにおっかなびっくり、八宮の指先が先輩の制服にツンツンと突き刺さる。指先から感じられる仄かな熱、タイミング的にもかなりの脱ぎたてほやほやである。

 思いっきり顔の下半分に押し付けて匂いを嗅ごうとして――


「八宮~すまないね。ケースに入れ忘れた分がまだ残っていたんだ――って……」


 理科室の扉が開いて、塩原が入ってきた。

 つい先ほどまで周囲を警戒していた八宮が、出入り口の方に向けていた気を緩めたその一瞬。よりにもよって嗅ぎ始めたその瞬間に入って来るなんて。


「……ぁ。あ、えと……これは、その、違うんです」


 終わった。完全に終わった。

 塩原は制服についていた名札が見えたのか、それが誰のものなのか察しがついたようだ。


「六木のか。そういえば君たち仲が良かったな。昔あいつがよく話していたよ」

「な、内緒にしていただきたいのですが……」


 白衣の腰についたポケットから取り出したのは、彼女のスマホであった。最近出た新機種で、確かカメラの性能が良いヤツ。

 塩原は悠然と構えた姿勢に微笑を乗せながら、スマホに滑らかな手つきで操作を加えていく。


「いや、私も生娘の反応なんて、特に気にもしない……気にするつもりもなかったが…… 『パシャ☆』 よし」

「よし、じゃないでしょ! ちょっとその写真どうするつもりですか!?」


 そして、銀の板の背面にあるフラッシュを焚いた。レンズの向かう先はもちろん、制服を抱きかかえたまま立ち尽くしている八宮である。


「さっきの時間は三年生か。今から急げば間に合うな」


 塩原は理科室に掛かっている時計を確認して、淡々と話す。

 自身の置かれた状況にようやく理解が追い付いた八宮はもの凄い動きで走り出し、教師の後ろ足へとしがみついた。

 実験ばっかりやらせて座学を教えてくれないクソ教師が。せめて私と一緒に裁きを受けろ。


「間に合いません! もう閉店です (?) 生徒との秘密速攻でバラすとかアンタ本当に教師かいいから本当にちょっと待って――」

「制服、忘れた……」

「み゛ゃーーーっっ!!??」


 恥も外聞もなく塩原の足にしがみついて暴れていると、さっきと変わらないおっとりした声で六木先輩が理科室へと入ってきた。

 そのまま無言で、八宮に向かって手を伸ばしている。


「こ、こちらになります……」


 理科室に入って来たタイミングとしては、ギリギリ見えていないともいえる。

 だが手元に携帯をもったイカれた女教師☆塩原との真向勝負の最中でもあったから、普段から、八宮のことをかなり疑っていれば、ギリギリバレるラインでもある。

 これはセーフか、アウトか。


「どうだい、着心地は」

「……ん。優しい匂いがする。女の子の匂い」


 そう言って六木先輩は、優しく微笑んでくれた。今の八宮にとってはそれがもう、弾け飛んでしまいそうなくらい嬉しくて。


「~~~~~~~っ!」


 八宮は二の腕を握って俯きながら、溢れ出る感情を噛みしめていた。

 擦り付けた二つの膝小僧がプルプルと震えて、気を抜くと腰が蕩けてしまいそうなくらい嬉しかった。


 もうこの先は何でも出来そうな気がする。一先ず、次の授業くらいは真面目に受けようと思った。

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