41. 引き返せない(先生の視点)

 目覚めたとき、ティナはもういなかった。思った以上に、ショックを受けている自分がいる。こうなると見えていたのに、いつの間にか違う結果を期待していたようだ。


 気だるさと疲れで起き上がりたくない。もう若くないのに、度数の高い酒を一気に煽ってから行為に及ぶなんて、こうなって当然だろう。我ながら愚行極まりない。


 だが、昨夜はどうしても、酒の力が必要だった。


 ティナに指南をした後は、いつも気持ちが昂ぶって眠れなかった。眠りが足りないと実生活に支障をきたす。もし、寝不足で冷静な判断ができなくなってしまったら、いつ過ちを犯してもおかしくない。理性が保てなければ、ティナの身が危ない。


 なんとか危うい均衡を保ってきたが、どうしても抑えが効かない場面に何度も遭遇し、僕の精神は疲弊していたと思う。


 ティナは優しい子どもだった。そして、母親によく似て聡い女性に成長した。いや、おそらくは母親以上に賢くて、人の心に敏感な娘になった。


 彼女には、僕が隠したいことも隠していたことも、いとも簡単に見抜かれてしまう。僕が誰に対しても閉ざしていた扉を、鍵も持たずに内側から開けさせてしまった。


 そして、ティナが僕を知りたいと思ってくれる以上に、ティナに僕を知ってもらいたいと思うようになっていた。そんな気持ちを抱いた相手は、今までただの一人もいなかった。唯一、愛していたはずの女性すら、僕はずっと欺いてきたというのに。


『私はもうあなたを信じられない。人としても医師としても』


 当然だった。カルロスやニコライ殿下から頼まれたから、僕は黙っていたわけじゃない。彼女の命を削りたくなくて、彼女を失いたくなくて。そんな自分のエゴのために、進んで彼女を騙していた。


 だが、それは僕を悩ませた。ニコライ殿下は患者であり友人だった。もっと早くに、アリシアに打ち明けておけば、あるいは延命できたのかもしれない。


『もう友人でもないわ。私のことは放っておいて』


 そんな僕の苦悩を知っていたからこそ、アリシアは僕を突き放した。もう自分のために苦しむなと。


『先生が私に負っていた全ての任を解きます。あなたの献身が報われることを祈っています』


 彼女に愛を告白したとき、僕はいつでも彼女の味方だと、彼女への気持ちは生涯変わらないと言った。その言葉の呪縛からも、アリシアは僕を解放したんだ。


 そうは分かっていたのだけれど、それでもやはりきつかった。自己満足でしか遂げられない気持ちすら、もう捨てろと言われたのだから。長い年月に行き場を失って持た余した思い。大切に胸の奥で温めていたものが、消えてしまう喪失感。それは執着に似て、手放すのが苦しいものだった。


 ティナはそんな僕の悲しみに気がついて、僕のために泣いてくれた。僕のことだけを見て、僕の味方になってくれた。


『先生もお母様のことしか見ていない。それなのに、何も見返りがないなんて、悲しすぎる!』


 見返りなんていらない。そう信じていたしそう思ってきた。それでも、ティナにそう言われて、僕は初めて欲しがっていたことに気がついた。僕はずっと、愛する人に愛されたがっていた。ただ見守るだけでいい、そばにいて助けになるだけでいいなんて、自分に嘘を吐き続けて。


 愛して愛されたい。それが僕の本当の望み。


 ティナを抱いたのは、指南だからじゃない。弾みでも遊びでもない。一時の感情に流されたわけでもなく、ましてや酒に酔ったからでもない。


 彼女を愛して愛されたいと思った。僕を愛してくれているティナを、本当はずっと愛したかった。なのに、その事実からずっと目をそらしていたのは、僕だった。


 僕を混乱させていたのは、彼女の母親を愛していたという動かせない事実。そして、彼女を母親の代わりにしてはいけないという強迫感。ティナの中にアリシアの面影を見るたびに、僕は戸惑っていた。本当にティナを愛しているのか、自分の気持ちに自信が持てなかった。


 そして、二十五歳という年齢差も、僕にストップをかけた。彼女の父親であるカルロスよりもさらに歳上。医学の才を見いだされ、最高学府に通うためだけに下級貴族の子爵の猶子になったけれど、元は隣国の平民出身。運良く宮廷医まで上り詰めたけれど、所詮は成り上がりだ。大国の王女とは身分が違う。


『迷惑なら、そうはっきりと拒絶して。じゃなきゃ、諦めることもできない』


 迷惑なわけがない。僕がティナと一緒にいられて、その存在にどれほど安らぎを見出していたか。彼女には想像もつかないと思う。そして、諦められないというティナの気持ちも、痛いほど分かっている。僕も彼女に対して、ずっとその気持ちを抱いていたのだ。


 僕はもうすでに、引き返せないくらいティナを深く愛してしまっていた。

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