39. 溢れだす心
先生は客間ではなく、自分の部屋にいた。前のめりに手をついている机の上には、たくさんのカルテらしき書類が散らばっている。
「どうして、お母様に本当のことを言わなかったの?」
「ティナ、聞いていたのかい?」
「はい。お母様は誤解してるわ。伯父様のご病気を隠したのは、先生の独断じゃない。お父様と伯父様自身の希望でもあったはずよ」
「どうして、そう思うんだ?」
「カルテを見たの。出産のたびに聖女の力がどんどん弱まっていた。お母様はそれをお父様たちに隠したくて、だから、こっそりと先生に相談していた。違う?」
「驚いたな。君は探偵なのかい?」
「月に一回、お母様の診察をしていた夜だけ、先生は香水を変えていたわ。お父様と同じものに。最初はお母様の意志を尊重した、先生の診療隠蔽工作だと思った。でも別の意図もあったんだわ」
「それは……」
「お父様にカルテを見せてもいいように。同じ香水なら、もし香ってもお母様は見られたことに気が付かない」
私の話を聞いて、先生は驚いたように目を見張り、それから息を吐くようにして、力なく笑った。
「ティナはすごいな。そんなことまで。本当に君には隠し事はできないね」
「お母様は先生の思いやりに気がついているはずだわ。それなのに、あんなひどい言い方をするなんて」
「ティナ、君の母上はそんな人じゃないよ。それは君もよく知っているだろう」
分かっている。お母様は先生の優しさを十分知っている。だから、先生を一人にしないように、私の我儘を聞いてくれた。私の願いを聞いてくれたのは、娘を甘やかしたからじゃない。先生を心から愛している私を、彼のそばに置いておきたいと思ったから。
「ごめんなさい。分かってるの。でも、私、納得できなくて。どうして先生だけが、悪者にならなきゃいけないの。お父様だって伯父様だって共犯だわ。ううん。お父様はもっとひどい。今でもお母様の力のこと、知らないフリをしているんだもの」
「それは違うよ。僕がお願いしたんだ。君の父上が知っていることに気がつけば、母上は僕の診察を止めてしまう。力の減退のことを極力隠そうとする。僕は医者だ。診察ができなければ、救うことも助けることもできない。これは僕の我儘なんだよ」
「なんでみんなそんなにお母様を。やっぱり伯父様もなのね。病を隠していたのは、お母様に無理な力を使わせないため。もし知ったら、お母様は何がなんでも伯父様を助けようとするから」
「ティナ、誤解だけはしないでほしい。君の母上は、誰であっても人を救うためなら、自分の命を犠牲にしても構わない人なんだ。それは彼女の優しさであり、同時に脆さだ。誰かの代わりに失われていい命なんて、この世には存在しない。命の重みはみな同じなんだ。彼女は彼女の命を全うしなくてはいけないんだよ」
「やっぱりお母様はずるい。こんなにみなに愛されて、大切にされて。先生もお母様のことしか見ていない。それなのに、何も見返りがないなんて、悲しすぎる!」
いつのまにか、私は泣いていた。感情が溢れ出して、止めることができなかった。
お母様が悪いんじゃない。誰も悪くない。それでも、これほど深くお母様を愛しているのに、その気持ちが報われることがない先生が、とてもかわいそうに思えた。
でも、それはたぶん、私がどれほど先生を好きでも、それが報われない辛さを知っているから。私は先生じゃなくて、先生の姿に自分を映して、それを哀れんでいるんだ。
「ティナ、僕は十分に見返りをもらっているよ。だって、君がこうして僕を分かってくれるだろう。僕を心配して、そうやって泣いてくれる。君の賢さと優しさは、かけがえのない癒やしだ。これは、君の母上が力を削ってまで、君をこの世に送り出してくれたおかげだ。僕は君を、本当の娘のように大切に思っているんだよ」
先生はそう言って、私の頭をなでてくれた。私は娘。先生にとっては、自分の子供のようなもの。
「先生、今夜も一緒にいていい? 先生を一人にしたくないの」
「ダメだよ。もう指南は終わりだ。王妃から聞いたよ。君の婚約は延期になるそうだ」
「時期は遅れたとしても、いずれは政略結婚の駒になるわ。指南は必要よ」
「政略結婚はしなくていいんだよ。適齢期までに君にふさわしい相手を見つけて、恋愛結婚すればいい」
「相手ならもう見つけてるわ。私が好きなのは……」
私の言葉を遮るように、先生が続けた。
「最後まで指南しなくて良かったよ。その必要もないのに、うかつに君に傷をつけていたら、僕はずっと苦しんだだろう」
「そんな言い方ずるい。私は先生に一生消えない傷をつけてほしい。なのに、それで先生が苦しむなんて言われたら、引き下がるしかないじゃない! そんなのは卑怯だわ」
「ティナ、僕は……」
先生は戸惑っている。それなら、その気持ちを利用する。私はそう決意した。
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