36. 彼女に向かう気持ち(先生の視点)
なんとかギリギリのところで踏み留まっていたけれど、ティナに向かう気持ちは行き場をなくしてもがいていた。
マルセラという若者が、ティナに好意を持っているのはすぐに分かった。若い二人はお似合いで、見るものにため息をつかせるほど美しかった。
だから、マルセラが部屋を訪ねてきたとき、心に影が差した。ティナとの秘め事を十分に聞かせた後に、僕は何食わぬ顔をして彼に会った。
「ずいぶんと余裕がないんですね」
「どういう意味かな」
マルセラは、すぐに僕の意図を理解した。年老いた男の見苦しい嫉妬。それが僕を、あんな行動に駆り立てたことを見抜いていた。
「ジルベルト様は、奥様のことを分かってらっしゃらない」
「君は妻の何を分かっていると言うんだ? ほんの数時間、一緒にいただけで」
「そうですね。他の男を牽制するために、彼女を困らせたりしない程度には」
「彼女が困っていた?」
図星だった。だが、素直に認めることはできなかった。僕は追い詰められていた。この男の存在が、ティナがこの男に惹かれてしまうのが怖かった。
「それすらお分かりにならないなら、私にもチャンスはありそうですね」
「がっかりさせて悪いが、君の希望は叶えられない」
「大事なのは、奥様のお気持ちです」
「そんな簡単な話じゃない。君は若いな」
「確かに私は若輩者ですが、ジルベルト様を追い越すための時間はあります。今は無理でも二十年後には、彼女に愛されるかもしれない」
「頼もしいな。その頃には、僕はもうこの世にいないだろう。君の勇姿が見れなくて残念だ」
「本気でそう言っているなら、やはりあなたは奥様を理解されていない。それならば、私も遠慮する必要はないようですね。いつの日かあなたを超える男になって、奥様を苦しみから解放して差し上げます」
「口を謹んでもらおう。これ以上は不愉快だ」
二十年先と言わず、今すぐにでも。この男は軽く僕を超えていくだろう。ティナが本気で望めば、この男は彼女を奪って逃げる。
それを想像しただけで、胸にドロドロした感情が渦巻いた。この男に、いや、他の誰にも、ティナを渡したくない。
「ご無礼をいたしました。これを奥様に」
マルセラは持っていた包みを差し出した。ずいぶんと分厚い本だ。
「人妻に贈り物か? 君は見かけによらず大胆だね。それとも、ティナの愛人の座を狙っているのかな」
「これは奥様がほしがっていたものです。だから、私が買わせていただきました。奥様が喜ばれるようにと」
「妻を喜ばせるのは、夫である僕の役目だ。悪いがそれは引き取ってもらおう。金は払う」
「中を確かめていただけませんか。その後なら、捨てていただいても結構です」
「君にものを頼まれる理由はない。中身はだいたい想像がつく」
「そうは思えないので、お願いしているのです。あなたはもっと奥様を見て差し上げるべきだ。彼女が気の毒です」
「君の戯言はもう聞きたくない。とにかく出ていってくれ。夫婦の夜を邪魔するのは野暮だろう」
若さからくる絶対的な自信。僕にとっては失ってしまった眩しさだった。マルセラは持っていた包みをテーブルに置いて、最後にこう言った。
「これは置いていきます。どうか、中身を確かめてください。奥様のためじゃなく、あなたのために」
気持ちが落ち着くのを待ってから、包の中を確かめた。それは見慣れた本だった。医療を志すものが一番最初に読む入門書。
ティナは僕の世界を、僕が見ているもの、僕が感じていることを、知りたいと思ってくれている。僕に正面から向き合おうとしている。彼女は大事な人を助けたいと言った。彼女の大事な人。失いたくないもの。後悔したくないこと。それはすべて僕につながっている。
僕の中に、彼女への気持ちが溢れ出した。真っ直ぐで純粋で、美しい心を持った女性。彼女を守るためになら、僕はなんでも差し出そう。どんなことがあっても、ティナは幸せにならなくてはいけない。そのために僕が邪魔なら、喜んでこの生命を捨てる。
ティナは僕の大切な女性。世界中で誰よりも愛して、その幸せを誰よりも願う相手だ。僕のすべてが、彼女に向かっている。おそらくマルセラは、僕のこの気持を見逃すなと言ったのだ。僕のために。僕たちのために。
この気持ちを、僕はティナに隠しきれるだろうか。最後まで愛していないと、嘘をつき続けられるだろうか。
僕の気持ちを知れば、ティナは迷わず僕を選ぶだろう。それは彼女を王族から、家族から引き離すことになる。そんな彼女を一人残して、僕は逝くことになるかもしれない。ニコライ殿下は四十三で亡くなった。僕がそうならないと、誰が言えるのか。
ついさっき、王妃から帰国命令が届いた。明日には、ここを発たなければならない。残された時間はあと一日。腕の中で安らかな寝息を立てるティナを見つめながら、僕は最後の決断を迫られていた。
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