29. 私が育った世界
伯父様が亡くなった日のことを思い出しながら、私は市場の中を足早に通り過ぎる。先生が娘さんを助けた後、周囲にはどんどん人が集まってきた。みながお店の品を差し出すけれど、先生はそれを丁重に断った。
先生は救急隊の費用をあの場で払ってあげたらしい。きっと庶民には払いきれないような高額。市場の人たちは自分たちの仲間を救って、お金まで払ってくれた先生に、なんとか感謝の気持ちを表そうとしているんだろう。
私たちは目立つのを避けようと、そっと市場を抜け出した。もし身分がバレてしまったら、いろいろと面倒なことになってしまうから。それでもと追ってくるので、最後は手をつないで走ることになってしまった。
私が息を切らしていたので、先生は市場の近くにある、パステル・デ・ナタの有名なお店に連れていってくれた。首都で人気になったお店の二号店らしい。
周りのパイ生地はカリッとしているのに、中のカスタードはしっとりと甘くて、口の中で溶けていく。いくら食べても飽きない味。
「ティナ、看護婦は君がするような仕事じゃない。幼い頃から労働に慣れている庶民にだって、体力的にきついって嫌がられるんだ」
お茶を飲んで一息つくと、先生が市場での話の続きを始めた。ちょっと走っただけで息切れしているような人間に、二十四時間体制の看護勤務は無理だと。
「鍛えてないけど、昔から体は丈夫よ。主治医なんだから、よく知っているでしょ」
「そうだね。でも、君は医務室に入り浸りじゃないか。児童心理学の見地から言えば、神経が繊細な子に多いことなんだよ」
児童って! 先生は意地悪だ。私が医務室に通い詰めたのは、友達にいじめられているとか、家族に虐待されているとか、そんなことはもちろんない。落ちこぼれではあったけれど、それを理由にひどい目にあったこともない。
ただ、先生に会いたかったから。
「私はそんなヤワじゃないわ。そりゃ、最初はお父様のお小言から逃げたくて、その隠れ場所だったけど。そんなのずっと前の話でしょ?」
「そうかな。五年前のことなんて、オジサンにはつい昨日のように思える。月日が過ぎるのが早く感じられるんだ」
「すぐそうやって、私を子供扱いして! もうジルの妻になれるくらいには、立派な大人の女性なのに」
「親の許可なしには結婚できないだろう。妻になっても夫の保護が必要な未成年だ」
年齢のことは聞きたくない。先生との年の差はどうしたって縮まらない。でも、子供扱いはされたくない。
「人の生死に直接関わると、精神的に疲弊するんだ」
「私の考えが甘いのは分かるわ。だから、これからきちんと勉強して、自分にできるかできないかを確かめたいの。私も先生みたいに人を助けたい」
「人を助けたいと思うのは君が優しいからだ。だが、医療従事者はただ優しいだけではダメなんだ。他人の痛みを自分のことのように感じて、心身ともに潰れてしまう」
「ジルだって優しいわ。でも、ちゃんと働いてる」
「僕は君とは違う。仕事と自分を分けているんだ。業務に深入りもしないし、仕事に侵食されることもない。きちんと線を引ける」
「それは、この指南のことを言ってるの?」
閨房指南役は、お母様からの業務命令。先生が私と一緒にいてくれるこの時間は、先生にとっては仕事。
本当にそうなの? 私のことを少しも好きじゃないのに、こんなにたくさん触れたりできるの? キスとか、もっとその先のこと。そんなに簡単にできるもの?
「ここでは、そういう話はしないほうがいい。馬車で話そうか」
先生はそう言って立ち上がり、私が立つと同時に椅子をひいて手を取ってくれた。スマートで完璧なエスコート。先生は素敵すぎて、どこにいても目立ってしまう。もちろん、このカフェでも私たちは注目の的だった。
「僕は医療現場の話をしているんだよ。王室業務は別だ。公私を分けることは難しい」
「じゃあ、先生も? 少しは私のことを……」
「ティナ、僕の話をしているんじゃないよ。君のことだ。公私の全てが王族の義務となる。それが君のいる世界。君は公私を分けないよう育てられた。だが、それは医療の世界では毒になる。君には無理だ」
私がこの指南に愛を求めてしまうのは、公私を分けない王族としての教育のせいだと? 刷り込みに左右される人間は、看護師には不適切だと言うの?
「君は生まれながらの王族だ。王女として生きるために、その中で幸せを見出そうと、僕に男女関係の指南を依頼したんだろう。だから、僕は仕事としてそれを受けた。そこに私的な感情はない。僕から搾取できるものをすべて奪っていきなさい。そのための指南だ」
「搾取? 私はもらうだけで、何も返せないんですか?」
先生には得られるものはない。その事実に私はショックを受けた。
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