27. 時間という名の絆
お母様の寝室をノックしてみた。返事はない。先生はいるはずなのに。私は心配になって、もう一度ノックしてからそっとドアを開けた。
そして、そこで見た光景に、胸が締め付けられた。
先生はベッドサイドに座ったまま
それはどこからどう見ても、愛する女性の回復を祈る男の仕草だった。
「すまない。許してくれ」
先生は聞こえないくらい小さく、でも確かにそう
割り込めない関係。邪魔してはいけない世界。先生には私が踏み込めない領域がある。触れられない思いがある。それはとても神聖で静謐で、まるで霧に包まれたみたいに、先生の心の中だけの守られた場所だった。
私は黙ってドアを閉じた。お母様に謝ることが、少しでも先生の心を軽くするなら、その機会を与えてあげたい。
お母様に眠りが必要なのと同じ理由で、先生にはきっとこの時間が必要なんだ。ニコライ伯父様の死を悼んで、永遠に失われた命を惜しむ時間。お母様が先生の看病を必要としてるんじゃない。先生がお母様に縋っているんだ。
「お母様は眠っているから、しばらくは誰も来なくていいわ。後で呼ぶから、そのときはお茶を持ってきてちょうだい」
私は侍女たちにそう指示して部屋から退出させた。そして、そのまま寝室の次の間となるレセプション・ルームの椅子に座って待機した。
日が落ちて夕闇が忍び寄り始めた頃、寝室のドアが開いて先生が出て来た。
「先生、お母様の具合は?」
「ちょうど目が覚めたところだ。今は落ち着いている。陛下を呼ぶから、王妃のそばにいてくれないか」
「分かったわ。任せて」
私は先生に笑顔でそう言って立ち上がり、お母様の寝室に向かった。そんな私の背中に、先生が声をかけた。
「ティナ、ありがとう」
「私はお母様の娘よ。当たり前のことでしょう」
「いや、そうじゃなくて。僕のために、君に気を使わせたろう」
「さあ。 私は何もしていないけど?」
どうして先生は、私のことを何でも分かってしまうんだろう。どんなに小さくても、見逃されて当然のことでも、先生はきちんと見てくれる。
いつもなら、それが嬉しいのに、今日はそう思えない。余計なことだったと、私の考え過ぎだと、今日だけはそう言ってほしかった。先生の気持ちを、今日だけは読み間違えたかった。
「後をよろしく頼むよ」
「ええ、ドアの外のメイドに、お茶を持って来るように伝えて。お母様はジンジャー入りの甘いミルクティーがお好きなの」
「ああ、そうだったね。お易い御用だ、伝えておくよ」
先生に軽く微笑みかけてから、私は寝室のドアをノックした。
「どうぞ」
中からお母様が返事をしてくれたので、私はそのままドアを開けた。
先生がこちらの様子を見ていたことには気がついていたけど、私には振り向く勇気がなかった。先生の目に愛惜の色があったなら、私はきっとお母様に嫉妬してしまうから。
「ティナ。いてくれたのね。心配かけてごめんなさい」
お母様は私を見て、少し笑ってくれた。泣いてから眠ったので、目を泣き腫らしているのに、お母様は相変わらず美しかった。
「辛いお気持ちお察しします。伯父様は私たちの大事な家族ですもの」
「ええ、そうね。とても大切な人だったわ。今ね、夢を見ていたの。子供の頃のお兄様の夢よ。忘れていた約束を思い出したの」
「伯父様が会いに来られたんだわ。離れた場所で人が亡くなると、魂だけでも家族に会いに来てくれるって聞いたことあるわ」
「そうなの? じゃあ、ずっと眠り続けようかしら。お兄様が来てくれるなら」
「お母様、すぐにお父様が来ますから。一緒にお茶を飲みましょう。体が温まりますよ」
お母様は黙って、また涙を流していた。今は泣きたいだけ泣くしかない。それしか、悲しみを癒やすことはできない。
「ねえ、ティナ。あなたはお母様を置いて行かないでね。一人にしないでね」
「当たり前よ!。お母様こそ元気でいてくれなくちゃ。孫の面倒、いっぱい見てもらいますからね」
「まあ、ふふふ。孫ってティナの子どものこと? もうそんな年頃なのね、この間まで赤ちゃんだったのに」
「私、もう十六よ。お母様がアルフお兄様を授かった年齢とそう変わらないんです」
「そうね。ティナはもう真剣な恋をしているんだものね。先生にもう思いは伝えたの?」
「お母様! なんで、そんなっ。どうして分かったんですか?」
お母様は今度こそ、本当に嬉しそうに笑った。
「恋バナは大好物なの。サラから聞いてるわ。先生の周りをチョロチョロして、恋敵を撃退してるって」
サラさん、余計なことしか言わないんだから。学園に戻ったら、診療室を占領して、たっぷり意地悪してやるっ。
「告白はまだです。だって片思いだから。先生には好きな人がいるらしくて」
そして、それはお母様。私が絶対に勝てない相手。越えられない女性なんです。
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