21. 恋愛指南【新妻の心得】
「先生、隣の部屋にマルセラが……」
「少しくらい待たせても問題ない」
「でも、あの……」
隣室に繋がるドアに、私は両手を押し付けられている。先生の顔が目の前に。どうしよう。こんなに見つめられると、やっぱり恥ずかしい。自然と体が熱を持つ。
「これは教育的指導だよ。指南だ。貞淑な妻は、夫以外の男に可愛い声を聞かせちゃいけない」
「それは……」
「新妻の心得さ。声を我慢しなさい。それが出来たら、彼に会わせてあげよう」
先生はそう言うと、私の首筋に唇を這わせた。そのまま強く吸われると、痛みに混じって別の感覚が呼び覚まされる。自然と息が上がる。
「無理っ! 変な声が出ちゃう」
「しょうがないな。手で口を押さえておきなさい」
先生が手を離したので、思わず口を覆った。手が使えるようになってホッとしたのも束の間。それはつまり、先生の手も自由になったということだった。
唇と手で首を撫でられ、それがゆっくりと移動していく。布一枚隔てているのに、触れた場所が火傷したみたいにジンジンする。
与えられる刺激に耐えられず、先生の頭を鷲掴んで思わず声をあげると、自然に体が震えた。全身から力が抜けてしまい、私はその場にへたりこんだ。先生が抱き止めてくれなかったら、床に倒れていたかもしれない。
「聞かれてしまったね。悪い子だな」
「ご、めん……なさい」
涙目で見上げると、予想に反して先生は嬉しそうだった。どうして? 声を我慢出来なかったのに!
「上手く感覚を拾えるようになったね。こんな顔をして。これじゃ、彼には会わせられないな」
息が上がって返事ができないので、私はただ頷いた。どっちにしろ、腰が抜けて動けない。
「物分りがいい奥さんだ。さあ、少し休みなさい。彼には僕が会おう」
私を抱えてベッドまで運ぶと、先生はさっと身支度を整えて、寝室を出ていった。隣の部屋で話し声が聞こえるけれど、頭がぼうっとしていて、よく理解できない。
それでも、先生の機嫌が良くなったのは朗報だった。重たくなる瞼を感じながら、私は先生の不機嫌の理由を思い出そうとしていた。
先生と街で合流した後、私たちは昼食をとることにした。有名な児童書の著者がお気に入りだったというカフェ。ここでは、お茶だけじゃなく食事もできる。
「もっとゆっくり寝ててもよかったのに。私のせいで眠れないんでしょ」
「なぜ、君のせいだと?」
「連日、観光に連れ出してくれてるんですもの。夜中にお仕事をしているのかなって」
「ああ、そういうことか。大丈夫だよ」
先生は安心したような、残念なような顔をした。私、何かトンチンカンなこと言ったのかな。どうもよく分からない。
「お酒で疲労を紛らわしてない? 国でも働く女性にキッチンドランカーが増えてるの。アルコール中毒になったら大変よ」
「ボトルを見たのかい? あのくらいじゃ僕は酔わないよ 」
「嘘だわ。だってワイナリーでは、試飲だけで酔っていたでしょう」
「あれはワインのせいじゃなくて、君が……」
先生は何か言いかけてから、黙ってしまった。やっぱり私のせい?
「うん。歳をとると酒も弱くなるものだ。昔はザルを通り越して、枠と呼ばれていたが」
「先生、そんなに酒豪だったの?」
枠って、いくら飲んでも、アルコールが素通りするって意味でしょ?
「ワインで育ったようなものだ。話した通り、僕の家はワインを扱っていたし、水よりも安全な飲み物だからね」
そうか。先生の故郷では、まだ庶民用の治水が整っていなかったんだ。それでも、飲み過ぎは良くない。
「もっと、体を気遣ってくださいね」
「そうだね。彼、マルセラと言ったかな。あのくらい若ければ、健康の心配なんてしないですむ。彼をどう思う?」
「執事さんに似て優しい人です。それに、みんなに注目されてたから、きっとモテるんだわ」
よく思い出してみれば、今日はずいぶんと周囲の視線を感じた。彼に憧れる女の子たちに、無駄なヤキモチを焼かせちゃったのかも。
「君が気が付くなんて、よほど見られていたんだろう。お似合いだったからね」
「は? 何が?」
「君たちがだよ。年齢も容姿も釣り合いが取れていた。彼は法学生だ。将来は弁護士か判事だろう。将来有望な若者だよ。彼を気に入ったんだね」
「私が? 特に好きというわけではないけど、好ましい方だとは思うわ」
学園の男子に比べて、ずっと落ち着いていて話しやすかった。ああいう人が弁護士だったら、依頼者は安心すると思う。
「僕は判断を間違えたようだ。邪魔をして悪かったね」
「ええっ! どうしてそういう話に? 先生が来てくれて、私は嬉しかったわ!」
「ジルと呼びなさい。無理をしなくていいんだよ。指南役は、彼に代わってもらうこともできる」
先生の不機嫌な声に、胸がズキッと痛んだ。
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