12話
13 幼年期
12月12日の午後、大聖堂の近くのトウヒがライトアップされていた。しかし8号線のライトは灯っていない。
観光地下都市の暑い冬に彼等は上着を脱いだ。
チュラウミ通りは交通量が多い。大昔の観光地を再現しているからだ。ナハのバスで数時間揺られる。彼はコートの襟を整えた。
...全ては迅速に行わなければならない。
銀行の支店は例の発言のせいで閉鎖している。
その時間はあっという間に過ぎていく、そのためすぐに人々は救われるだろう。
いや、ダメだ。まだ眠れない。月の光は届かない。
眠れない夜を何度か過ぎて、悟るだろう。最後の、彼に残る正義が消えた事を。
12日の夜が老けていく。クリスマスと、そして失業について話す彼等のその先に未来があるのなら、私は自分の家に帰ろうと思う。
チュラウミ広場の前で皆が言う。
ボイラーが爆発しただけかも知れない。
広場の16人の前に僧が立つ。
いや、ダメだ。眠れない。血と恐怖の夜。上の世界から奴らはやってくる。
誰が進んで贄となろうか?国家再建主義者は警察署から飛び降りた。
昨日、ご主人様の夢を見た。
秘密会議で帽子を脱いだんだ。この混乱が始まる前に。
いや、ダメだ。眠れない。
眠れない夜を何度か過ぎて、悟るだろう。自らの裕福さを。
殉教者たちの山の上で誰もが株価と失業率グラフに祈りを捧げる。
首なしオフィスワーカーの雨、首なし達の列。
国家再建主義者が嘯く。バリケードの叫び声が聴こえるだろうか?
讃美歌を歌おう。地上の鉄血時代が地下に波及したのだ。
ブルジョワ達が叫んでいる。
ハローワールド。
まぁ、そうだな。俺は音楽の授業が嫌いだ。ふざけてる奴の隣にいたらそいつと一緒に音楽室を出禁にされたからだ。その次に美術が嫌いだ。必死に描いた絵を、下手くそが描いたピカソと馬鹿にされたからだ。社会と科学は好きだった。物の成り立つや仕組みを理解するという行為が好きだからだ。
アドリアB2、クイズ大会にも出題されない味気ない場所。そこにこいつらは自分達の家、航空駆逐艦を隠した。なんだったか、艦名は忘れたが、旧式の航空戦艦だったはずだ。それを改造し続けることでその時代における最低限の戦力を維持してきただとか。
それとあと一つ、俺はこいつらと2日過ごして分かったことがある。こいつらはある一つの、自らの安全圏を自らの力で会得するという目標のために動いている。
「ハワス・コレツンという女性の人となりはだいたい理解したさ。でも彼女は若い。にも関わらずこの組織の重要ポストに居るんだ?価値を示した、というだけでは説明出来ない。」
この世紀末世界に於いて、弱さは罪である。弱者のままあろうとする者、もしくは弱者を守ろうとする者はこの世界には生きられない。強者ですら、より強者の庇護がなければ生活が立ち行かないのだから。
「さぁな、詳しいことは知らんさ。それとあの人のことは姐さんって呼べよ。」
屈強で荒くれた男達が認めた女傑、ハワス・コレツンという女性について俺は知ろうとしていた。
「彼女がそう呼ばせてるのか?」
彼はアルバート、短い金髪にサングラス、高い背と筋骨隆々の肉体はまさに漢って感じだ。
「まさか。俺たちが勝手にそう呼んでんのさ。あの人には姐さんって呼び方が1番似合ってる。」
可愛いところがあるじゃないか。と思った。だがおかしいな。俺は弱い...そのはずだ。俺はこの屈強な男を恐れなければならない。しかしどうだ?俺は恐れはおろか可愛げさせ感じている。これは俺が強くなったからなのか?これが、アルジャーノンの心臓なのか?
「じゃあアンバーはどうなのさ。」
アンバー・ザヒ、正直彼女には興味がある。もしかしたら心臓のことも詳しく知っているかも知れない。それに顔も良い。
「王女のことかい。あいつは俺たちの恩人さ。姐さんも含めてな。」
意外な呼び名だ。しかし王女ね...王の国はおろか国なんて存在しないと言うのに。
「王女?俺もそう呼んだ方がいいかな?」
まぁでも、腐っても自由国家連合は国家再建主義者の集まりということだ。
「お前がアンバー王女のことを王女というのは許さない。お前は買われてないからな。」
買われてない、か。実力をという枕言葉を略したのか?それとも比喩的な意味でなく、直接的な意味なのだろうか。
「王女は、必ず自らの国をお創りになられる。哀れな虜囚を救済して下さるのだ。」
悪の帝国の虜囚達を解放し、そして約束の地に導く。大昔の本、約束のようなストーリーだ。だが俺には彼女がそのような事を成し遂げる人間には見えなかった。俺から見たあいつはアンバー王女などではなく、ただの魔法マニアの少女アンバーだった。
「草に過ぎない。全ての人間が...全ての栄光は野の花だ。彼女がこれから成す行いもそれに過ぎない。やがて...」
俺には彼女が大義を背負えるとは思えない。彼女は多くある石の一つであり、玉石には値しない。器ではないんだ。少なくとも、人を率いる器ではない。
「アルジャーノンの心臓の依代は神と同一視された。王女はお前に興味を持っている。導きの星を探しているのだ。」
アルバートの語り草はまるで聖職者のようだ。アンバー王女はこの艦において信仰対象として宗教視されてるらしい。おそらく心臓の依代たる俺もそうだろう。
「...もし、神と人間の違いが単純な生物的能力の違いであるのなら、それは神ではなくエイリアンや獣として定義するべきだ。」
おそらくアルジャーノンの心臓が必要だった当時、その時はその依代たる人物に全ての希望を託す必要があったのだろう。だからその依代たる人物は人々の希望を叶える存在として神と同一視された。だが俺はどうだ?極めて利己的な理由でこの力を行使しようとしてる。そんなもの、神ではなく、人間ではない生命体でしかない。
「お前がどう思うにせよ、結局はお前のその力は恐怖でしか無い。信仰と恐怖は表裏一体と言える。なればこそお前は信仰から逃げることはできないのだ。」
俺の力...こんなもの魔法と同じ身体拡張でしか無い。あぁ、そうか。だからこそ恐怖され信仰される。祝福でもあり、まるで呪いだ。
「人類救世神、アルベルト・アンダーセン。したことがしたことさ。心臓の贄たる彼はどう思っただろうな...」
歴史において唯一、神として記録された彼は、人類を救った英雄であり、そして神である。彼は人類を凌ぐ知性と力を有し、その勇気を持ってして人類を救った。と記されている。神話ではなく、歴史で記されているのだ。そして、心臓の依代は神と同一視されると言う言葉。そのことから一つの解が導き出される。彼は俺と同じ、心臓の贄だ。
「神様の考えることは俺にゃ計り知れんが...おそらく自らの幸運を祝い、自らの不運を呪っただろう。お前と同じように。」
俺と同じ...いや、俺はそうは考えない。だってアルベルト・アンダーセンは自ら神となる事を選んだのだ。だが俺はどうだ?偶然俺が心臓を持っていて、偶然俺が依代になっただけだ。
「あ、そこに居たんですね。」
アンバーの声が聞こえる同時にアルバートは背筋をピンと伸ばした。
「アルバート、この男を借りても?」
「えぇ、もちろんです。」
彼女は俺の手を掴み強引に引っ張る。いや、引っ張っているのは俺ではなく心臓だろう。彼女にとって俺は心臓の付属品に過ぎない。
「あぁ、もし、私が貴方自身に興味がないと思っているのなら間違いです。心臓は置き換えによる最適化を行う道具に過ぎない。テセウスの船なんですよ。」
そうなのだ。テセウスの船、つまり彼女に俺は見えてない。まぁだが、結局せんない事なのかもな。やがて俺は消える。そんな予感、いや実感があるのだ。少しずつ、しかし着実に俺は消えてゆく。
「貴方もそう感じている筈です。それが心臓による報賞であり、そして代償なのですから。」
俺は彼女に連れられて航空駆逐艦のそこまで広くはない艦内を歩き回る。この大きな鉄の塊が高度6600ftを飛んでいるとは信じ難いが、事実である。航空艦艇は巨大な翼による揚力と、艦体から放出されるSQLによる波のような力場、そして莫大な推進力によって無理矢理この空に浮いているのだ。
「甲板に出ましょう。貴方には外の空気が必要だ。」
本気で言ってるのか?俺の今の服はジャンパーにジーパン、いたって普通の服装だ。にも関わらずこの高度で甲板に出る?寒いに決まってるじゃないか。
「バカなのか?」
手の圧迫感がさらに強くなる。まるで俺の疑問を無視するようだった。
「この扉の向こう側が甲板です。くれぐれも飛ばされないよう。」
重々しい扉に彼女が触れる。
「コードG。」
彼女は扉を開けながら詠唱した。おそらく高高度の薄い空気に対応できるよう身体強化の魔法を使ったのだろう。しかしハローワールドなしかつ、詠唱の後半を中略というのは驚愕だ。
「本当に開けるのか?」
魔法、つまりコーディングとは想像を現実に虚像として顕現させるという行為である。そしてくっきりとした虚像を顕現させるに詠唱が必要なのだ。よって無詠唱魔法というのはアタリなしに絵を描く行為であり、常人には慎まれるべき行為だ。だからこそ無詠唱魔法を行使する者は魔法の才に恵まれた者なのである。
「いきますよ。」
こいつ、まだ俺が魔法を使ってないのに...
「まじか!」
重い扉が開き、空気が一気に雪崩れ込んでくる。気圧差で向こうに空気が出ていくと思ったが...そりゃそうだな、この駆逐艦の巡航速度は50ノットである。例えるならそうだな、小型漁船の2倍と同じくらいの速度だ。
「...寒くない?」
驚くべきことに外は寒くなかった。いや、寒く感じなかったのだ。しかし気味が悪くて不愉快だ。
「溶鉱炉の中にでも投げ込まれなければ貴方は温度の変化を感じることができない。貴方の身体は数十度の変化なんて些細なことでしかないと判断したのです。」
この時、お前は人間ではないという事実を叩きつけられているような気がしたのだ。その事実、それが俺が俺ではなくなってしまったという信じたくない仮定を立証する物になり得るのが、俺にとって酷だった。
「身体だけではない、頭の中も同じ。貴方の身体はより優れたものに置き換わっていく。古いものを排出し、そして新たらしく、より強い身体に置き換わっていく。それが心臓なのです。おそらくもう数ヶ月もすれば今の貴方の数倍の魔力と筋力を持つことになる。そしてより優れた知能も。」
「正直怖い。俺は俺じゃなくなるのは嫌だし、俺はまだ皆の所にいたいんだ。それと、永遠なんてものはない。いずれピークがきて、そして下落していく。その時が1番怖いんだ。」
彼女がくしゃみをする。自分が寒い思いをしてでも俺に嫌な事実を叩きつけたかったのだろうか?
「なんだ?あれ。」
波のような紫色の空、そして無数の目玉を持つ積乱雲、朧に張り付くランゲルハンス島の群れ、緑色の血の涙を流す藍色の太陽、そして空の割れ目からこちらを覗く宇宙クマムシ。
「綺麗だ...」
俺を呼ぶ老人の音がする。あぁ、そうだ。単一は家族を求めている。寂しいからか?違う。単一の思考は16.483次元的であり、到底我々の理解が及ぶ所ではない。
だが心臓の恩恵があるのならどうだろうか?心臓による最適化、いや、心臓による超越化という方が正しい。それがあるのなら、単一と同等と叡智を得ることができる。
「何がです?」
だがこの世ならざる知恵を得てどうなる?単一の住まうところと我らの住まうところは違う。単一は1番近く、1番遠い場所にいる。交信するのだ、さすれば単一はもう一度使者を送るだろう。
「いや。綺麗だなって...」
瞬きをした時、その美しい光景は消えた。
「私がです?」
アンテナを高めよ。単一は我らを待っている。4000年前の1度目の交信、単一は我らを発見した。その時から単一は我らを観ている。そして2度目の交信が単一に届いたのだ。
「空がだ。」
今のはなんだ?あの地獄のような景色は?俺は...俺の知らない言葉で、俺の知らない知識で、俺の知らない思考をした。
「そうですか...私は見慣れてしました。美しいと感じる景色も、いつか日常に溶け込んでただの背景になってしまう。悲しいものですね。」
俺が美しいとそう形容したのはあの悪夢の空だ。今の俺は美しいの微塵も感じないがな。
「確かにな。今思えば、俺の故郷も美しいかったかもしれない。しかし、俺が赤子の頃からそこで過ごしていたせいで、その美しさを実感できなかったのは勿体なく感じる。」
まぁでも、確かにこの空は美しい。何処までも広くて、自由だ。あらゆる地上の蟠りをこの空は受け止めてくれる。空と海に限り無く、数多多くを受け入れてくる。
「アラムーラ、でしたね。海の貴方へ、映画の舞台になっていた所でしたね。あの映画好きなんですよ私。」
水上都市アタランテ、そこに住まう若者の恋物語。あれは非常に感動した。だがこの気持ちはなんだ?俺はあの映画で心動かされたはずだ。なのになぜ、俺はあの映画など別にどうでもいいと、そう感じてしまう心がある?そして、なぜ俺はあの映画よりもあの悪夢に心踊らされるんだ?
「俺も好きだよ。特に女優、可愛いよな。」
この燃える使命感の正体を誰か教えてくれ。俺はあの悪夢の空に酔ってしまった。単一という謎の概念に焦がれた。俺はその単一とやらに交信?しなければならない。そうしなければ恐ろしいことになると本能が俺の身体に訴えているのだ。
「んー今度一緒に観ますか?円盤あるんですよ。」
おそらく彼女はこの事を知らない。あの狂気的光景は人間の正気を破壊するものだ。
...彼女はこれを知るべきでない。彼女は悪夢の空を愛さないだろう、それは許されざる事だ。
「あぁ、そりゃいいな。いつにする?」
この心臓は俺が、人類が知らない事を教えてくれる。聖性の知識は興味深く、俺の興味をそそるものであり、私はこの知識を理解し、そして駆使しなければならない。
「21日までならいつでも。それまで中ですることもありませんから、今からでもいいんですよ?」
「なら今日にしようか。」
俺は、確かめたかった。もし、あの映画を観たとして、俺がもう一度心動かされるのであればそれでいい。だがもし、俺があの映画をみてまだあの悪夢の空に心焦がれるのならば、俺は正気ではないという事だ。
「じゃ、私の部屋行きましょ。」
心臓の鼓動が教えてくれる。簒奪者、アルベルト・アンダーセンは役割を成そうとしなかった。彼は人類の小さな生存圏を守る為に心臓の力を行使した。彼はその恩恵だけを享受した盗人である。しかし、私と同じように、彼とてこの聖性に焦がれない訳がない、あるいはその恐怖を慰める為、何かしらの記録を残しているはずだ。それが形を変えて受け継がれている可能性がある。
「いいね。」
再び駆逐艦の中に戻る時、俺は空を見た。青い空、白い雲、ダークブルーの透ける朧。あぁ、綺麗だ。なのになんで俺は...あの悪夢の空を...
「綺麗ですよね、やっぱ。」
過去、現在を含めこのことを知るのはたった2人だけだ。俺と、アルベルト・アンダーセン。
このことは誰にも知られるべきで無い。聖性は秘匿されるべきだ。炙り胎盤のトムヤムクン、そして然るべき後に秘匿は破られる。
「ほんとにな。」
もし、誰かが俺をカマキリと罵るのなら、俺はそれを否定できるだろうか?
「いつまで見てるんです?」
もう一度、あの空を見せてくれ、そう願えど空は青いままだった。
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