眩暈

水橋 黄土

第1話

海鳥の軋むような鳴声に混って、海面から水しぶきの音が聴こえた。甲板から奴隷の死体が投げられたのである。

落下の勢いで一瞬海に沈んだ死体は、すぐに仰向けの状態で浮かんで来た。若い男の奴隷だった。不気味なほど穏やかな死相が快晴の空を向いている。黒く長い髪が水中に広がって、私には海月のように見えた。

生前は飢餓と痛みに顔を歪ませ、内心で殺したいほどに我々を憎んでいた彼らが、死んだ途端に安寧の色を見せるのが、私は妙に怖かった。

自分は死ぬ瞬間に、このような表情を浮かべることが許されるだろうか。日々考えてみるが、依然としてそうは思えない。彼らは臨終に伴って私たちには見えぬ何かが見えている。そんな気がして仕方がない。

死後硬直で臥位に固定された奴隷の身体は、その姿勢を保ったまま波に揺られ、船体が進むにつれて私たちの視界から遠ざかってゆく。甲板に居る他の航海士たちは何事も無かったかのように葉巻の煙を燻らせている。


奴隷船に下級船員として乗り込んでから2ヵ月が経った。私は奴隷たちが押し込められた船庫の守衛を任されていた。

奴隷たちに水と食事を与えるに際して扉の開錠を行ったり、医師に随行して死亡した奴隷を搬出したり、発狂する彼らを黙らせる為に木刀を振るうなどしていた。

船庫には四肢を拘束された奴隷たちの吐瀉物や糞尿、正体不明の体液がところかしこに散乱しており、この非人道的な環境に出入りするだけで随分と気が滅入った。私が奴隷側だったら早々に疲弊して死んでいたに違いない。


衛生の都合上、死んだ奴隷や疫病の疑いのある奴隷は海に投げ捨てるように規定されていた。私は数日に一回、奴隷を甲板に運び、彼らが海中に遺棄される様子を見てきた。


「この仕事は絶対に必要な仕事なんだ。だけど、誰もやりたがらない。皆、自分が手を汚すことを恐れている。だから俺たちが、この仕事をやるんだ」


船長は毎日このようなことを言って、船員の士気を高めていた。

この船には船員より遥かに多くの奴隷が積載されている。我々が気を抜けば彼らに反乱を許すかもしれない。一瞬の隙でこちら側が皆殺しにされてもおかしくはない。したがってこの船では奴隷へ情を持つような言動は禁じられていた。


こんな鬱々しい航海も今日で一旦は終わりだ。今はまだ早朝だが、夜にはこの船は帝国の港へ終着するだろう。私の任務は船が港へ到着した時点で終了し、停泊後の荷下ろし及び陸上輸送の手配は別の業者が担当する段取りになっている。


船は追い風に煽られてぐんぐんと進み、捨てられた奴隷の死体は水平線上に消えた。先程まで私の記憶にあった彼の輪郭もすぐに霞んで曖昧になった。


――私たちはモノを捨てただけだ。


そう考えなければ何かが壊れてしまう気がした。


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