1.4. 青春の脱走
町外れにある三階建ての小さなマンション。入居者が少なくて大家が頭を悩ませていた物件。その一室にマナは居た。
本来『迷宮病』の疑いがある患者は隔離施設へと拘束されるが、田舎の町にそんなものはない。これから大都市に移動するにあたっての仮宿として用意された場所だ。
目立った抵抗もすることなく、マナはそこに居た。
誠の姿は見えないが、逃げようともしない。
本人の性格もあるが、誠と言う大人に対して反抗する気がなかった。
突然現れた黒羽誠は極めて丁重に彼女を扱っていた。
ここまでの移動中も乱暴な扱いはしなかった。
『必要なものがあればすぐに呼んでくれ』
そう言って隣の部屋へと移動した。監視をしなくていいのか、と聞いたら『自分が居たら落ち着かないだろう』と言った。
逃げ出そうと思えば逃げ出せる。けれど、油断だろうか、信頼だろうか、彼女は過度の監視は置いていない。
『君は『迷宮病』の危険性を知っている。なら、無謀な行動はしない筈だ』
黒羽誠は鍵宮マナの日常を破壊した人間の筈だ。だが、態度は極めて紳士的であり悪意はない。
そうであれば、元々大人しい気質のマナは抵抗することもなかった。
――そう、マナは。
深夜、眠れずにいたマナは月を眺めていた。
どうしても落ち着かなかった。そのおかげで、すぐに異常に気付けた。
最初は小さな音だった。空調の音か、古いベッドが軋む音かと思った。
だけど、月明かりの下に小さな何かが跳ねていた。
「石?」
ベランダの上で石が転がっている。まだ動きを失っていない。
もう一度音がする。今度ははっきりと床にぶつかって石が跳ねているところを確認できた。階下からベランダに向けて、石が投げ込まれていたのだ。
次に、手が見えた。彼女が居る部屋は二階。何者かがベランダに侵入してきたのだ。
「――ッ!?」
思わず叫びそうになる。だが、その前に侵入者の顔が見えた。
「マオちゃん!?」
額から汗を流した親友――マオカが昇って来た。
マナの顔をみると、唇に指をあてて『黙って』と合図をする。
「マナ、中から開けられる?」
「う、うん」
小声で返事をすると窓を開ける。
安堵の溜息がマオカの口から漏れた。
無事を喜び、お互いに手を取る。マオカの手は、いつの間にか傷だらけになっていた。
「マナ、迎えに来たよ……アタシと――」
ベランダの下を指さすと、彼女の兄が梯子を抑えていた。
「さ、早く降りて」
促されるままに梯子を下りる。音を立てないように慎重に一歩ずつ降りていく。
なんとか地面まで辿り着くと、ユウキがわざとらしく挨拶をする。
「ども、アッシー、じゃなくて兄のユウキです」
「ふふ……うん、知ってますよ」
「だよね。それはそうと、逃げる足は用意していますよっと」
彼が指を刺した先には白い軽自動車。免許を持っている彼のために、両親が残しておいたものだった。
「ど、どうして」
「告白するんでしょ。大丈夫、相手には待ってろって脅しておいたから」
冗談めかして笑うマオカに、マオも釣られて笑っていた。
「もう、先輩が怒ってたらマオちゃんせいだからね!」
友人の手をとって、立ち上がる。
ふと、誠実に自分に付き合ってくれた女性の姿が浮かんだ。
彼女には申し訳ない、けれど、目の前の友人の言葉に甘えよう、と。
だが、事はマオカたちの思い通りに運ばない。
「――待て!」
階上から鋭い声が響いた。
見上げると、マナたちが居た部屋のベランダに、誠が立っている。
ベランダの手すりに脚をかけると、飛びおりて来た。
猫のように静かに着地をすると、三人の前に降り立った。
「マオカ君、君か……まったく、納得してくれたと思ったんだけど」
誠の視線は鋭い。昼間とは異なり、警戒が明らかに混ざっている。
怯えて身をすくめるマナ。その前に立つと、マオカは毅然とした態度で言い返す。
「最初はそう思った。でも、やっぱり納得出来なかった。
それに、『迷宮病』が心の迷いから生まれるなら、心残りは無くしてから旅立つべきじゃないかな、って」
マオカはマナを見やる。
マナは、ハッとしたように息をのむ。
「マナ君、君もそう思うのかな?」
「……私は……」
瞳を閉じる。沈黙をする。
それを遮るようなことは、その場の皆はしなかった。
「もし、許してもらえるなら……私は、私の気持ちに決着をつけたいです」
「……それを認めることは出来ない。言っただろう、今の君は意中の相手すら巻き込んでしまう可能性がある。
信じろ、と言うのは難しいかもしれない。治療が終わるまで待ってくれないかな」
誠の返事は昼間と同じであった。それが極めて正しい物であることはマナもマオカも理解している。
「誠さん。あなたが悪い人でないことは分かります。言っていることが正しいのもわかります。
だけど、我儘を通させてください」
まったく、と小さく夜の闇に溶けていった。
「アニキ、こうなったら実力行使で!」
「いや、俺が傷害罪で捕まるって!」
「……なるほど、そのために男まで引っ張り出してきたと言う事か」
誠は身を低くする、道を塞ぐように構える。
「あ、えっと」
ユウキがその言葉を発した瞬間、轟音が響く。
ユウキは地面に叩きつけられるた。それを認識する間もなく、そのまま足で胸倉を踏みつけられる。
一瞬の出来事であった。
「すまない。君たちの諦めが悪いのは嫌と言うほど理解出来た。個人であれば好ましくあるが、私にも責任がある。
悪の手段であることは認めるが、ここは実力行使をさせてもらう」
「いや、その……ぐえ」
大学生の男が一瞬で倒された。それは、黒羽誠はこの場に居る人間を即座に制圧できると言う事であった。
マオカは迷う。どうするべきか。
マナの顔を暗くて見えない。だが、動き出そうともしない。
「ほら、諦め――」
――いや、そうはさせないよ――
男の声が響いた。同時に何か鋭いものが空を引き裂いた。
「つっ?」
誠の顔が苦痛に歪む。スーツには親指ほどのサイズの刃物が刺さり、血が流れていた。
「ほらほら、逃げなくていいのでしょうか」
黒い影が月の下に躍り出た。白いスーツに月光が跳ね返る。長身痩躯の男――ひとつ異常をあげるとするなら、ピエロの仮面をかぶっていた。
「な、ふざけているのか?」
「半分は、ですね」
ピエロの仮面をかぶった男が誠に飛び掛かる。勢いのままに飛び蹴りを見舞った。
誠はとっさに腕でガードするが、踏ん張りきれずに吹き飛ばされてしまう。
「おやおや、キミは情けないですね」
「ほっとけ」
ユウキはなんとか立ち上がる。仮面の男は鼻で笑った。
「まあいいでしょう、勇者様の貴重な姿が見れた」
男はマオカたちを守る様に誠の間に立つ。
「お、お前は……」
マオカは、誠が焦っている様子を初めて見た。
それもその筈である。目の前に居るのは――
「変態だ」
「変態だな」
仮面をつけた怪しい男。それは変態に間違いない。だが、身も蓋もない評価を受けた仮面の男の背中はしょんぼりと萎んでいる。
「くそ! この変態め! 何故邪魔をする!」
「そりゃあ、ワタクシは少年少女の青春を助けるために戦っているだけです。あと変態って言わないで欲しいなぁっ!」
仮面の男は獣のような動きで誠に飛び掛かる。
誠も今度は油断をしない。拳でいなしながら反撃の機会をうかがっている。
「ほら、今のうちに逃げちゃいな!」
戦いながらも三人に逃げるように促す仮面の男。その言葉に従うべきか、ユウキは迷った。
だが、マオカがマオの手を取って走り出す。
「アニキ! 早く! 車動かして!」
「いや、でもあんな怪しい奴に従うのか?」
「いいの! アニキがやらないならアタシがやる! 無免許運転で事故ったらアニキのせいだからね!」
「あーもう! わかった!」
ユウキも、マオカも必死であった。
だから、気が付かなかった。
マナの顔が青くなっていたことに。
仮面の男を見た瞬間から、汗が止まらなくなっていたことに。
三人は車の中に飛び込むと、すぐさま車を走らせる。
法定速度ギリギリで走りだす。
マンションの敷地を抜けて車道へ。
夜の田舎は車も通らない。ユウキが運転する車のライトだけが頼りだった。
三人を乗せて車は走る。
「大丈夫、かな」
「……ああ、そう思いたい」
信号を二つ三つ超えて、交差点で捕まった時、ようやく吐き出した言葉は短かった。
「これからどうする?」
「とりあえず、朝まで待とう。そしたら先輩に告白して……誠さんに謝ろう」
「ははっ……下手したら逮捕されるかな」
冷や汗をかきながら、これからの事を考える。
朝が来れば、少しはましになる……そんな不確かな希望をもって逃げる。
だが、そう簡単に夜は終わらなかった。
金属のひしゃげる音がした。
ユウキはアクセルを踏もうとしたが、再び轟音が奔った。
ユウキはたまらずブレーキを踏むと、車体に衝撃が走る。
「くそっ!?」
「アニキ、車の前」
マオカが指を指し示した先。ボンネットの上に、仮面の男が立っていた。
「やあ……待っていましたよ。彼女は中々に手ごわかった」
男は自らの仮面に手をかける。
嘲笑いような軽薄で粘着質な声が漏れ出てくる。
「さあ――目覚めて――様」
マナの顔が青ざめていた。
震える唇から漏れたのは悲鳴だった。
「あ、あぁあーっ!?」
社内にマナの叫び声が響き渡る。
空間が歪む。
『迷宮』がユウキとマオカ、そして、仮面の男を飲み込んだ。
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