文を遺す、彼方へ届く


 世界はまるで、一編の物語。

 全てはただ在る様に在り、そこに特別な理由などない。そこで生きた人らの受け取った解釈だけが、それらの形容として遺される。


 言葉とは、零れ落ちた心の一欠片。

 或いは自らの姿を映し出す水面。揺れながら、移ろいながら。今現在の自らを示し続ける断片。

 

 物語は世界。

 紡がれる言葉は大海。読み人とは、その果てを目指す導なき漂流者。無限とも言える奥行きを有する閉ざされた世界を、数多の解釈を以て切り拓く開拓者。




 筆を執る。

 いつかの約束を果たすために。

 遠い昔。記された世界を読み解く事を直向きに愛した、一人の人間について。移ろい往く月日の中で埋没し、二度と掬い上げられぬ歴史の底に封じ込められることのない様に。そんな人間が実存したのだという事を、書き記す。


 産み落とされる世界に貴賎はない。

 それが記録でも、空想でも。紡がれた世界そのものに善悪も是非も、優劣もない。

 とはいえ申し訳なさを感じるとすれば。稚拙な言葉達が、いつかこの世界を訪れた誰かの目を汚す事にだけは、僅かに。


 それと。心の内の全てを知るわけではないこの身が、無謀にも書き遺そうと目論むその本人にも。縁があるならば、その内に謝っておこうと思う。


 …それは杞憂か。

 彼女のしたためた文にはただひたすら、この世界と、そこから産み落とされた世界への愛情ばかりが綴られていた。満天の星の様に煌めく数多の世界の一つに自身がなることを、彼女が咎める姿はどうしても想像できなかった。


 書き出しは決まっている。

 あの日見た思い出の風景をそのまま言葉に。出来うる限り嘘が混じらぬ様に。心底からの敬愛が映し出される様に。そしてどうか、実存と感情によって産み落とされる言葉達が、また誰かの世界の一つとなる事を願って。



身の丈にも合わぬかもしれない願いを込めて。誰の目にも触れないかもしれない言葉を、未だ見ぬ誰かへとしたためる。それはまるで、宛てのない文の様だった。


 伝わるだろうか。僅かに躊躇う。けれどこの恐れこそは、言葉を紡ぐ全ての人等が踏み越えてきた気高き恐怖。ならば往かねば。遺した言葉が誰か一人、遠く彼方にでも届くと信じて。


 書き上げた言葉に。遠く褪せないいつかの姿が映し出される。その姿を今はただ、ただ、懐かしく思った。

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