第2話 夜明けの魔女
由香(28)は家路を急いでいた。今日もまた終電帰り。もうずっとダブルチェックを一人でこなしている。明らかに職場がおかしい。このままでは何も改善しない。でも、もう何も考えたくない。一秒でも早くベッドに
マンションの入り口に、いかにも、うだつの上がらない中年男が腰を掛けている。酔っ払いかよ、結構なご身分なことで。忌々し気に男を避けてマンションの中に駆け込む。
郵便受けを確認していると、ガラの悪い男たちがさっきの中年を取り囲んでいるのが見えた。
由香は何の感情を抱くことも無く部屋へと戻っていった。
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ようやく眠りに付けたかと思った矢先、インターホンの音がすべて台無しにした。そのまま無視したかったけれど、それで諦めてくれるのだろうか。早く終わりにしたいと欲求が勝り、玄関に走る。
ドアスコープの先に制服姿の警官。こめかみに血流が走り現実に引き戻される。
「夜分、すいません」
ドアはチェーンをかけたまま、そっと開ける、隙間から見える姿はたしかに警察官。顔はよく分からない。
「今しがた向かいの道路で、中年男性が殺されたんです。目撃者を探しているのですが、心当たりはありませんかね?」
「いいえ分かりませんね。明日も早いので、もういいですか」
(人が死んでるんですよ?)
それは警官が発した言葉だったのだろうか?
でも愛想を作る気力もない。
「あー、夜分にすいません。ご協力ありがとうございます。もし、何か思い出したことがあればこちらに連絡ください」
警官はそっと名刺を差し出した。
由香(28)は再びベッドに戻ろうとする。
「あのおじさん、殺されたんだ……」
ぼやけた思考の焦点が合った。突然、沸き上がった感情が胸を締め付ける。ちゃんと伝えないと――
慌てて玄関に戻り外へ飛び出す。
「あの、お巡りさん――」
黒い大きな影が由香に覆いかぶさる。彼女の両肩を強く押さえつけていたのは警官の図太い二本の腕だった。
「キヤァァァァァァァァァ!!」
恐怖に歪んだ顔――そして。
◇◇◇◇◇
次の瞬間、警官の喉から刀の切っ先が生え出てきた。
吹き出す鮮血の代わりに、ドス黒い何かが地獄の亡者のように溢れ出した。
ノアの両手に握られた刀は、警官の頸をうなじから貫通していた。
「観客はお断り。鍵を閉めて、じっとしてなさい!」
ノアは、警官に掴まれていた女性を部屋の中へと蹴り飛ばした。
警官は前屈の姿勢をとって無理矢理に刀を引きくぬくと腰の拳銃に手を伸ばした。発射される弾丸。ノアは当たり前のことのように平然と刀身でそれを受ける。
「絶好調だ。弾が止まって見えるよ、ふふん」
振り下ろした刀が警官の制服を引き裂くと切り口からヘドロのような黒い塊が溢れ出し床に飛び散る。
平凡なマンションの通路だったはずのその場所が黒く染め上げられていく。世界が酷く歪められ、エッシャーの騙し絵のように現実と非現実が混ざりあう。
その光景を眺めていた俺は勢いよく嘔吐した。
主観がこの世界の在り方を拒絶する。
それでもノアから目を離すわけにはいかない。
ノアは巧みな体術で銃弾を避け続け、敵を追い込んでいく。
警官だったはずの何者かは、血しぶきを上げる代わりに世界を歪め、その姿を変えていった。今やその半分は黒い毛皮の追われた野獣の姿を現していた。ノアは終始笑顔を湛え、息をもつかせぬ攻防を楽しんでいるようだった。
こんなとき、どんな感想を持つのが正しいのか分からないけど、楽しそうなノアを見てなんだか嬉しくなった。
そして決着はあっけなくついた。ノアは踏み込むと同時に、一閃。警官の首がごろんと床を転がる。
同時に、歪んだ世界を染めあげていた黒い塊は、水分を失ったかのように硬質化し、パラパラと崩れ去っていった
何の変哲もないマンションの通路が再び姿を現す。そこは夜の静寂に包まれていた。誰かが飛び出してくるようなこともない。
警官の死骸だったはずのものに代わって、全裸の中年男が床に寝そべっていた。
先ほど俺が床にぶちまけたディナーのなれの果てもそのままだ。
「ノア、説明してくれるんだよな」
「やだ」
断られた。
「お腹がすいた」
ノアは壁に張り付いていた黒い塊の一部を引き剝がすと、ムシャムシャと食べ始めた。
「おい、変なもの食べると腹壊すぞ」
最後まで残った大きな塊を一つ、また一つと口の中に放り込む。
不気味だったヘドロ形態とは違って、固まってしまえば焦げたカラメルのようでおいしそうに見える。
「それ、旨いのか」
「マズイ」
「不味いのかよ」
あらかた食べ終えると、ようやくノアは俺のほうに向きなおって声をかけてくれた。
「アキト君。随分老けたね、笑える。まだ夜明けまでには時間があるね。どうしよっかな」
「俺たちはさっきまでホテルにいたんだぜ。じゃあ、ここはどこだよ。どうなってるんだよ、訳が分かんねーよ」
「うーん、デザートが食べたいな」
「んだよ、自由人か。俺めっちゃ混乱してんだぞ。7年も俺を放っておいて、いきなり呼び出したかと思ったら、ファンタジーか」
「おいおいおい、アキト君。ほったらかしにしたのは誰の方なのかな。だいいち、キミはボクのことをノアだと思ってるんだろ。ボクはその事に怒ってもいるんだよ」
ノアは今まで見せたことのない嫌らしい笑みを見せた。
ノアは……ノアはそんなことは言わない
「魔女か。確かそういったな。でも魔女ってのは名前じゃないと思うぞ、普通」
「タピオカだな。そうだ、奢ってもらうならタピオカだ。忙しいボクが今日に限ってデートに誘われてあげよう」
お茶目なウィンク。
どうにも話がかみ合わないけど、こうやって焦らすのはノアの常套手段でもあった。魔女を名乗る彼女はノアと別人というわけではない。混ざりモノの加わった、ノアがブラックコーヒーなら、こいつはカフェオレのような、そんな存在だというのが俺の直感だ。会話が成り立つ限り、最悪よりはずっとマシだ。
「わかった、わかったよ。今どきタピオカかよ。タピオカで検索……杉並区井萩? さっきまで日比谷のホテルだったろ?深夜2時までやってるタピオカ屋なんて……あったよ。日本人働き過ぎだよなぁ。」
「なんていうお店かな。ボクのケータイにも登録しておこう」
高校生にの顔をしたノアにもう懐かしさは感じない。
「行こうか、魔女」
「いざそう呼ばれると気持ち悪いな。やめよっか、アキト君」
横目で彼女の笑顔を確認する。夜のデートに胸が弾んだ。
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