変身シリーズ
岩須もがな
1 「変身」ガチオマージュ
※カフカ「変身」のネタバレあります。青空文庫にあるのでぜひ読んでください。
ある朝、兄は奇妙な虫になった。
会社員のくせに起きてこなかったので部屋の外から声をかけると、あちこち物が落ちる音がして何か喚きだしたので、ついに精神の限界を迎えたかと慌ててドアを開けたら、兄はおらず、ただ、デカくて黒い虫が床を這いずっていたのだ。
両親は兄の失踪届を出した。兄を兄とは認めなかった。それどころかデカい害虫扱いで殺そうとしたので、俺は必死で止めた。兄を部屋から出さない、掃除や食事の世話は俺一人でやる、という条件で兄を住ませることを認めてもらった。
俺だけは、それが兄だとはっきり分かっていた。
確かに姿は変わってしまった。
兄は移動する時、粘液を残してゆっくり這う。粘液の筋の先で、いつでも二本の触覚を揺らしている。背中は硬く、腹は柔らかく、途中でねじれ、頭と胴の境界は曖昧で、全身の縁にたくさんの足がうじゃうじゃ蠢いている。あやふやな昆虫のような頑丈な芋虫のような、あるいは複数の生き物の生々しく不気味な部分を掛け合わせたような、人間の生理的嫌悪を引き出すに特化した形だった。しかもデカい。
一目見れば嫌いになるだろうし、多くの人は一目すら直視を恐れるだろう。
でも、普通に接すれば兄だと知れる。
兄ちゃん、と呼べば頭を揺らして応えるし、白米はフリカケがかかってないと食わないし、部屋のテレビをつけると楽しそうにぼうっと見ている。会話はできないし、思考能力もそれほど無いように見えるが、仕草には兄らしさが現れていた。
それから、この虫が兄である何よりの根拠は、あの小説。カフカの「変身」だ。主人公が理由もなく奇妙な虫になり、家族にも見放されていく、という全然面白くない話なのだが、兄はしきりに面白がって文庫本を読み返していた。そしてある時、「心底羨ましい」とこぼした。
「会社に行けなくなって、迫害されて、自然と弱って死ぬ、これは理想だ。誰にも惜しまれずに死ねている」
「死なないでよ」と思わず本気で止めると、兄は「おまえが悲しむうちは死なないよ」と笑った。笑って頬を持ち上げると、社会人になってから消えない目の下のクマがますます深く見えた。
「本当は、ほら、俺も役立たずの醜い虫になっちまえればいいんだけどな。家族さえ俺を嫌ってくれたら、いっさい心残りはないんだから」
「そんなことには絶対ならないよ」
「わかってる。冗談を言ってみただけだ」
兄は明るいふうに笑ったが、その笑い声は弱々しくて、空っぽな感じがした。
不安になって「本当に冗談だよね、嘘だよね」と念を押してもとうとう答えなかった翌朝、兄が消えて虫が現れたのだから、訳は知らないが本当に人間から虫になったということだろう。兄は冗談ではなく「変身」をオマージュしたのだ。
そんな兄の望み通り、両親は兄を憎んで殺そうとした。
そして俺も時々、嫌気がさす。
兄の這った跡を拭く時。糞を片付ける時。返事を期待せず話しかける時。俺の知る兄はもう何処にもいない、と感じてしまうことがある。兄は奇妙な虫になった。そして二度と人には戻らないのだと思う。この虫を殺しても誰も人殺しとは咎めないだろうと思う。
そういう時、カフカの「変身」を読み返す。主人公が虫になったことに理由はない。変身は理不尽な災害だ。その後の展開も結末も理不尽だ。
本気で羨ましがっていたのか、本気でこんなふうに終わらせたかったのか、考えながら兄の愛読書のページをめくる。
「でも兄ちゃん、虫になってからはずいぶん元気そうだよな」
話しかけると、兄は時々わずかに頭を振る。縦か横か、ハイかイイエか分からない。もしかすると本当は、意思らしきものはとっくに失われているのかもしれない。本当にただの虫になってしまったのかもしれない。
それでも毎朝、俺は兄の部屋に踏み入る。食事を出して換気して掃除して、初日に混乱した様子で暴れて以来は永遠に思考も感情も放棄して狭い部屋をのんびり這いずり回っている虫を、兄ちゃん、と呼んでみる。このデカくて奇妙な虫は、ただの虫として扱うにはあまりにも兄だ。だから、変身したから終わり、にならないように。
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