マスクタウン~2045年の片隅に生きて~

小野原千里

第1話  マスクタウン1~2045年の片隅に生きて~

 その日の学校帰り、中学校以来の友人であるドイツ人のハンスと、フランス人のルイと三人で、よく行く喫茶店にぼくは向かった。


『喫茶店 やまちゃん』というくだけた名前のその店は、学校から自転車で十五分くらいの、街の北側にたたずむ丘の中腹にあった。


 電動自転車で三人、小高い丘の坂道を上っていく。


「あいかわらず、タフな坂だな……」坂の途中でルイがうなるような声でつぶやいた。


 ハンスとぼくはそれを聞いてくすくすと笑った。電動自転車で坂を上りながら「タフな坂」ってどういうことだ? そりゃあ、多少の負担は足に感じるけれど、そんなに急な坂ではないし、自転車が好きなぼくにはむしろ気持ちがいいくらいだった。ぼくの二倍近い体重がある上半身デブのルイには、足にかかる負担がハンパじゃないらしかった。


 店につくと、ぼくら三人は店の裏の駐車場に自転車を停めた。表に回ると、ログハウス風のしゃれた建物に、外観には似つかわしくない『喫茶店 やまちゃん』という店名が書かれた木製の看板がかかっている。


 ぼくは窓ガラス越しに店内の様子をうかがった。いつもどおり客のいないさびしい店内の光景が、窓ガラスに映っている。


――よし!


 内心、ガッツポーズを取りながら、ハンスとルイの二人につづいて店に入っていった。いつもどおり窓際のボックス席に三人で座ると、


「あー、疲れた。腹へったよ~」ルイが言った。


「オレも」ハンスがうなずいた。


 テーブルの端にあるメニューを、ぼくは手に取って二人に渡した(タブレットの一つも置いてないという、今どきめずらしいほどのレトロな喫茶店だった)。


 二人はメニューを広げて左右からのぞき込む。


「オレは、サンドイッチと……パンケーキと……チーズケーキ……それにミックスジュースにする」ルイが言う。アメリカ育ちのためか、フランス人にしてはめずらしく間食にお金を使うことをいとわなかった。


「オレは、コーヒーとチョコレートケーキ」とハンス。


 あいかわらず、オーダーを決めるのが早かった。二人合わせても二十秒もかかっていない。どこの店に行っても二人はいつもこんな感じで、優柔不断なぼくとは違い、何事につけても即決という感じだった。


「隼人は?」


 ルイに聞かれてぼくはメニューを見た。


「さっさとしろよな、制限時間は一分で」間髪を入れずにハンスがクギを刺し、左腕の腕時計に目を落とす。


「あ、え……」ぼくはしどろもどろになり、写真付きのメニューに慌てて目を落とす。ハンスがぼくの優柔不断をお気にめさないのは知っていたが、さすがにこれはどうなんだろう? と内心首をかしげた。何で喫茶店でのオーダーにまで制限時間を決められなければならないのか……。


 けれども、釈然としないぼくの思いを尻目に、「十……九……八……七……六……」早くもハンスのカウントダウンが始まった。


 ぼくは慌てて、「じゃあ、コーヒーとティラミスにする」


「よし、やまちゃんを呼ぼう」ハンスがテーブルの端のブザーを押した。


 アメリカ育ちのせいか、ルイもかなりせっかちな方だったが、ハンスのせっかちさはそれに輪をかけるところがあった。


 店長のやまちゃんがニヤニヤしながらやって来た。うさん臭い風体をした四十代後半のおっさんだった。


「よう、ヒマ人ども~」木製のトレーに乗せた三人分のお冷のグラスをテーブルに置く。やまちゃんは、Tシャツにジーンズといういで立ちで、Tシャツの上から黄色いエプロンを掛け、頭には本人いわくトレードマークであるというニット帽をかぶっていた。ニット帽のうしろから伸びた後ろ髪は、あいかわらずべったりと汚くテカっている。お風呂に入らないのだろうか? この人は。髪が薄いわけでもないのに、ほとんど一年中かぶっているニット帽もナゾでしかなかった。


「おい、今日は女の子たちは?」


 ぼくの学校の同級生のことだった。ハンスの元カノである朋美と、ルイの現在の彼女であるのり子と、ぼくと腐れ縁の幼馴染みであるカスミのことだった。彼女たち三人も貸し切り状態にできるこの店を気に入り、ぼくらと一緒によく来るのだった。


「今日は、個室のある他の店で女子会するんだって」ぼくがそう答えると、


「げー、じゃあお前らだけ?」やまちゃんは露骨に顔をゆがめてみせた。「ただでさえ女っ気のない店に、野郎ばっかりで来るんじゃねえよ、むさくるしい……。気が利かねえな、ほんとに」


 その言いぐさに、ぼくは内心あきれた。「ただでさえ客の少ないこの店に足しげく通う常連客に対する言いぐさとは思えないね、ほんとに」


「わるうござんしたね。でも俺に言わせりゃあ、この国のやつらが本音を言わなすぎるんだよ」やまちゃんはいつものごとく開きなおってみせた。「他の国でなら当たり前の正直さが、この国じゃあ空気の読めない変人か、バカ正直になっちまう。やってらんねえよ、まったく。なげかわしいほどの欺瞞性じゃねえか、なあ、ハンス」


「その意見には賛成だね」ハンスはうなずいた。「オレも本音を言わない日本人のソンタク文化には疑問しかないよ。なんでわざわざこっちが相手の気持ちを考えて、本当の気持ちを言うことを抑えなくちゃいけないんだ」


「その点は、オレも同感だな」ルイまでがその意見に同意する。「自分の正直な意見を言うだけで、『何でそんなこと言うの?』って日本人は怒り出す。相手に自分の意見を言うだけで怒られるなんて、アメリカやフランスじゃあまず考えられない。小さい頃からしっかりと自分の意見を持てって教えられてきたんだからね。それに本心が言えないってことは、相手が自分に言っている言葉の半分はウソやごまかしってことで、その部分の意味をこっちで考えなくちゃならない。なんで日本人はそんな面倒くさいことをするんだ? そんなことをしている国なんて、日本以外、この地球上のどこにもないんじゃないか? オレは日本以外のアジアの国には行ったことがないけど、少なくともダディの知り合いの中国人だって、そんな面倒なことはしないよ。自分の意見を相手に言わなかったり、思ってもいないお世辞を相手に言ってみたりさ」


 三人からの集中砲火をくらい、ぼくとしては黙るしかなかった。ドイツやフランスには(もちろん、アメリカにも)、日本における「忖度」のような概念や言葉は基本的にないらしかった。彼ら西欧人の口から発せられる言葉とは、基本的には彼ら自身の本音であり、そのため日本人のように相手に対する気遣いから、本心とはまったく逆の気持ちを言ってみたりするようなこともなかった。普段からそうして本音で会話をすることが当たり前になっているから、ぼくら日本人が彼らに対して言った言葉も、そのまま彼らに受け取られてしまう。こちらの言った言葉を鵜呑みにされてしまうのだ。もちろん、直接、気持ちを言葉にしないと伝わらないのだから、こっちの気持ちを察してもらおうなんていうのも基本的にはムリゲーだった。この文化の違いには、ぼくもハンスやルイと友達になったばかりの頃には、相当に戸惑ったものだった。


「どうだ、隼人くん。これが国際標準というものだよ」やまちゃんがしてやったりのドヤ顔で、ぼくの顔をのぞき込む。この『国際標準』『国際基準』という言葉は、やまちゃんが金言のごとく重宝している彼の十八番だった。


「ああ、そう。そんなことより、いつになったらオーダーを取ってくれるの?」


 ぼくは話題を変えることで、この劣勢を何とか挽回しようと試みた。三人にスクラムを組むようにして向かってこられては、さすがに反撃の仕様がなかった。何よりぼく自身が、彼らの言うことを認めざるを得ないほど、普段から日本人に対して疑問を感じているところもあった。


「何にする? ハンス」やまちゃんが尋ねた。


「コーヒーとチョコレートケーキ」


「豆は?」


「モカで」


「了解」うなずきながら、紙の伝票にオーダーを書き込む(ていうか、今どき紙の伝票って……)。「あ、そうだ、ハンス、この前面白いって言ってたドイツの映画観たぞ」


「ああ、どうだった?」ハンスは微笑でうなずきながら尋ねた。


「現代にヒトラーが生きていたらっていう設定がおもしろかったな」


「だろ? ヒトラーなら確かに自分の支持者を集めて、ドイツの中にもう一つの国を造るために内乱を起こしそうでしょ?」


「可能性は大いにあるだろうな」やまちゃんはうなずいた。「まあ人間だったら、ヒトラーじゃなくても、自分の居心地のいいコミュニティを造りたいっていう気持ちは、多かれ少なかれ持ってるだろうけどな」


「まあね」ハンスはうなずいた。


「俺がこの店作ったのだって、同じ理由だもん。一国一城の主にならないかぎり、社会で適応するのはまず無理だろうなって」


「やまちゃんを雇ってくれる企業は、確かにそんなにはないだろうね」ハンスは笑いながらうなずいた。


「ネコ被るのは得意だからどこかしら雇ってはくれるだろうけど、たちまち正体がバレてクビにされるだろうな」


「なるほど、そっちのパターンか」ハンスがまた笑う。「ナットク」とはずんだ声でもう一度うなずく。


 ハンスは、やまちゃんというこの四十年配のうさん臭いオヤジのことをいたく気に入っていた。ドイツ人であるハンスには、歯に衣着せずにものを言うやまちゃんのこの日本人離れした接客ぶりが、故郷であるドイツのことを思い出させ、なんともなつかしい気持ちにさせられるということだった。基本、消費者に対して神対応で過剰なサービスを提供する日本の企業とは違い、ドイツ国内における多くの企業のサービスとはかなりおおざっぱなものらしく(少なくとも、ハンスの話から、ぼく自身はそういう印象を受けていた)、僕にとってはナゾでしかないやまちゃんの横暴な接客ぶりが、ハンスにとってはノスタルジーを感じさせるということだった(まったく、どういう感覚をしているんだ、一度、ドイツ企業の接客ぶりというものを見てみたいものだった)。


 やまちゃん自身も、ハンスが自分に好感を抱いていることはもちろん知っていて、そのためぼくとの会話で分が悪くなると、その度にハンスの同意を得ようとする。仲間を増やして何とか反撃を試みようとするのだ。大人げないとは、まさにこの人のことだろう。


 ぼくら三人が、この『喫茶店 やまちゃん』に足しげく通い始めてからそろそろ一年が経つが、その理由は僕ら三人の中でリーダー的存在であるハンスが、この店を気に入っているということが大きかった。


「何にする? ルイ」やまちゃんはルイに尋ねた。


「サンドイッチとパンケーキとチーズケーキ。それとミックスジュース」


「あいかわらず、三時のおやつの量じゃねえな」やまちゃんは紙の伝票にオーダーを書き込みながら言った。「どうせ帰ってからまた悪玉コレステロールの塊みたいなメシ食うんだろ? お前、いい加減にダイエットしねえと、将来、後悔することになるぞ」


 その言葉にぼくは内心あきれた。これが客に対する言いぐさだろうか? よくもまあこれで客商売が務まるものだと思う。店の主人が客に対していつもこの調子だから、地元の人でこの店にやって来るのは、オーナーのこの無礼に目をつむることのできる常連客ばかりだった。


「人の心配するより、自分の心配したら?」ルイは意外にも怒っていない声で返した。


「どういう意味だよ?」やまちゃんは眉間を険しくした。


「世界一少子高齢化が進んでいるこの日本で、この店内の状況はなかなかマズいと思うんだけど」ルイはゆっくりと店内を見回した。


「何で少子高齢化だったら店が混むんだよ? どういう理屈だ」


「だって、老人って基本的にヒマじゃん。散歩したり、本読んだり、喫茶店で時間潰すくらいしかやることないでしょ? だったら、こんな放課後のヒマな時間帯に、この状態はヤバいでしょ?」


 ぼくは思わず吹き出しそうになった。やまちゃんを相手にルイのその饒舌ぶりは、さすがだと思った。歯に衣着せずにものを言うハンスと同様、ルイもやっぱりメンタルの強さという点では、欧米人のご多分に洩れず、ハンスにも引けを取らなかった。違うのは、やまちゃんのこうした接客ぶりに対してあまり好感を持っていないというところだけだった。同じ外国人でもフランス人とドイツ人でまったく考え方が違うという当たり前のことを、ぼくは二人から教わったのだった。


「残念でしたぁ」やまちゃんはベっと舌を出してみせた。「日本のご老人てのは、今や家でゆっくりくつろげるような経済状況じゃねえんだよ。老人になってからも働いて日々の生活費を稼がなきゃ生きていけねえの。若者がいないから、老人の介護も老人がしなきゃなんねえから、外で遊んでる暇もねえしな。何年も日本に住んでて、そんなことも知らねえのかよ、勉強不足だね、ルイくん」


「ああ、そうなんだ。正直、日本の老人がどんな生活を送ってるかなんてまったく興味がないからね」ルイは気にも留めていない様子で言った。「まあ、仮にそうだとしても、この店のこの状況はヤバいよね。いい加減、何とかしないと、それこそ光さんに愛想つかされるんじゃない?」


「おーおー、店の将来だけじゃなく、わざわざ俺と光の仲まで心配してくれるとは、さすがは恋愛大国フランスのご出身で、アメリカ育ちのジェントルマンだわ。そっちこそ、そんなに太り過ぎて彼女にフラれないか、心配した方がいいんじゃねえか?」


「ご心配なく。至ってラブラブなんで」


 ハンスがそれを聞いてくすくすと笑った。「さすがは恋愛大国のフランス出身で、アメリカ育ち」


 やまちゃんは肩をすくめた。「それにしても、何であんなカワイイ子が、こんな体型のやつにベタぼれ何だろうな?」


「あれ、それってどういう意味?」その言葉に、ルイの口調と表情がにわかに変わった。「さすがに今のはちょっと聞き捨てならないな。太っていたら、カワイイ彼女がいたらいけないの?」眉を寄せながら、椅子から立ち上がる。


 たちまち場に緊張が走った。普段からあまり怒らないうえにガタイもいいため、本気で怒るとさすがにけっこうな迫力があった。


「ルイ、落ちつけよ」ハンスが口を挟んだ。「いつものやまちゃんの冗談だよ」


その言葉に、ぼくは驚いてしまった。ハンスは基本的に喧嘩の仲裁をするような奴ではなかったからだ。ハンスにとっては、議論は議論をしている当事者同士だけのものであり、他人が介入するべきものではないというのが彼の一貫した考え方だった。それがこんなふうにやまちゃんに助け舟を出すなんて、やっぱりハンスも(おそらく、ルイもそうなのだろう)、知らず知らずのうちに日本人的な感覚が少しずつ身についてきているのかもしれないとぼくは思った。


 ハンスはやまちゃんに視線を向けた。「やまちゃん、オーダー取りに来たんでしょ? とっととオーダー聞いて、キッチンに戻れば? さすがにちょっと悪ノリがすぎるよ」


 やまちゃんはさすがに困ったような顔をした。ハンスがここまではっきりとやまちゃんを批判するのもめずらしかった。


「ちょっと、またお客さんと喧嘩してるの? これ以上、お店の売り上げ減らされたら困るんだけど」


 キッチンの方から女性の声がした。やまちゃんの内縁の奥さんである光さんだった(一体どれだけの金を貢いでくどいたんだ、とこちらがいぶかるくらいの美人だった)。光さんの言う「また」とは、それこそ一年前、ぼくら三人が初めてこの店にやって来た日も、やまちゃんは、店内にいた七十年配の男性を相手に、人目もはばからずに(と言っても、ぼくら以外にいた客は一組だけだったけど‥‥…)、派手に口論をくり広げていたのだった。


「いくら気の強い外国の子だからって、相手はまだ高校生なんだからね」


「……わぁったよ」やまちゃんは面倒くさそうにうなずいて、ルイとぼくの方を向いた。「悪かったよ」


 ルイは顔を逸らしてさすがに返事はしなかったけれど、ゆっくりとまた椅子に腰を下ろした。


 ぼくは内心、ほっとした。


「隼人、お前何にする?」


「隼人は、コーヒーとティラミス。豆はハンスと一緒で」


やまちゃんは眉をひそめながら、ぼくのオーダーを伝票に書き込んだ。「隼人、お前いい加減に自分のことを隼人って名前で呼ぶのやめろよな」


 平成生まれのやまちゃんには、ぼくが自分のことを「隼人」と下の名前で呼ぶことに、どうしても抵抗があるようだった。けれど、令和生まれのぼくからすれば、そんなやまちゃんの考え方自体が古くさくて仕方なかった。


「あいかわらず古くさい考え方だね、やまちゃんは。時代遅れもいいとこだよ。そんなんだから、いつも年齢以上に他人からフケて見られるんじゃないの? 平成生まれどころか、もはや昭和世代の感覚じゃん」


「ほっとけ。こう見えても生粋の平成生まれなんだよ。それに、祖国日本の社会全体が軽薄化する中で、己の思想・信条を貫くためには、それなりに物事の基準ってものが自分の中に必要なんだよ」


「何、その祖国日本って、もうほとんど右翼の言い方じゃん」


「硬派って言うんだよ」


「ものは言いようだね。それにしても、スゴい自信。自分で自分のことを硬派って言うだなんて。どっからその自信が湧いてくるんだろ」


「何度も言ったけど、俺はいろんな意味で国際基準の人間なんだよ。いつもウジウジ悩んでる日本人に対して反感を抱いてるもんで、基本的には自分に自信を持つことに決めてんだよ」                                    


「ああ、そう。でも、国際基準って言うんだったら、若者のやることに対して否定から入るんじゃなくて、まず理解から入ろうっていうのが、現代の国際基準的なフレキシビリティだと思うんだけどね」


「おーおー、さすがはメディアで注目されてる大先生のご子息だわ。日々の会話の中で、名言が飛び出すその饒舌。ついでに、そのご大層な上から目線も親ゆずりってわけか?」


「父親は関係ないよ」


「ああ、そう。じゃあ、生まれつき性格が悪いんだな。将来、人間関係が大変そうだな、かわいそうに」


「ちょっと、いい加減にしなさいよ」光さんの声がまた飛んできた。高校生相手にここぞとばかりにまくし立ててくるやまちゃんに、さすがに語気には怒りがこもっていた。


「スミマセ―ン、言い過ぎました」やまちゃんはふざけた声色で一礼する。


 その悪びれない態度に、僕としてはもはや「何おかいわんや」の一歩手前という気持ちだった。数分前にルイと言い争いをしておいて、その数分後には懲りずに今度はぼくを相手に口喧嘩をしている――まったく、どういう料簡だ? 「憎まれっ子、世にはばかる」を地で行くような人だと思った。


「飲み物はいつもどおり料理と一緒に運んでいいんだよな?」やまちゃんが何事もなかったかのようにぼくら三人に尋ねる。ぼくらがうなずくと、「アイアイ・サー」ときびすを返し、キッチンの方に戻っていった。


「サーは、目上の男に対して使うんだよ……」ぼくはそのふてぶてしい背中に向けてつぶやくと、二人を見た。「ハンスがドイツに帰ったら、他にもっと居心地のいい喫茶店を見つけた方がいいかもね」


「いやまあ、別にそこまでしなくていいけどな」ルイは先ほどの怒りを忘れたようにけろりとした様子で言う。いつものことだが、ルイもハンスもぼくのように議論の感情を後々まで引きずることがなかった。後腐れがないのだ。


「そうそう、俺たちまで来なくなったら、この店、ますますヤバくなるぞ」ハンスが笑ってぼくをなだめる。「それに、口の悪さでは隼人も負けてなかったぞ?」


「売り言葉に買い言葉で、ああなっちゃっただけだよ……」


「そうか? そんな感じには見えなかったけどな」ハンスがまた笑う。「ファンキーで面白い人じゃん。基本的には右に倣えで、自分の意見を言わない日本人の中で、ああいう人材は貴重だろ? あれでけっこう憎めない人だから、店も続いてるんだろうし」


「何か悪いことでもしてるのかもよ? あんな接客ぶりで店が続けられるんだから」ぼくが反論を込めて言うと、


「それは、ありうるな」ルイはうなずいた。「あのうさん臭さだもん」


「まあ、まあ」ハンスがまた笑ってぼくらをなだめる。


 仕方なく、ぼくはリュックからメイク用のコンパクトを取り出し、メイクを始めた。コンパクトの鏡の中の自分を見つめながら、パフで顔を叩く。


 それを見たハンスとルイが、横目で苦笑を交わす。


「隼人、お前もういい加減にメイク止めろよ、歌舞伎俳優じゃないんだからさ。やまちゃんじゃないけど、男だろ?」ハンスが眉をひそめる。


「メイクが落ちちゃうと恥ずかしいんだよ」ぼくはパフで入念に顔を叩きながら返した。でも確かに、先日見たネットのニュースでは、今の日本では、男子中高生の三人に一人がメイクをしているらしく、若い男子がメイクをするその人口比率は、世界の中でも断トツでトップだということだった。それに引きかえ、ハンスの母国であるドイツでは、女性でもメイクをする人はあまりいないらしく、それだけに男がこれだけメイクをする日本人が、ハンスにはとてつもなく異様に見えるらしかった。


「確かに、お前はお世辞にもハンサムと言える顔立ちじゃないけど、それでも素顔の方がゼッタイにいいぞ、隼人」ハンスが語気を強める。


 言われているぼくとしては、はげまされてるんだか、けなされてるんだかわからず、何とも複雑な気持ちだった……。


「メイクで自分の顔をごまかすなんて自分の存在を否定することだ、人間としての尊厳の問題だぞ」


 コンパクトの鏡に向かってぼくは苦笑を投げた。まだ高校生であるハンスの口から、『人間としての尊厳の問題』などという言葉が出てくることに驚きを禁じえなかった。親友になって数年経った今でも、そういう高校生らしからぬセリフをハンスやルイが何のためらいもなく使って見せることに、折に触れて驚かされることがあった。むしろそうした言葉を使うことこそが、自分のアイデンティティの確立のためには不可欠なのだと二人は思っているようだった。まさに、元々の人種と、生まれ育った環境の違いがなせるワザなのだろう。


「そこはオレもカンゼンに同意だな」ルイがうなずく。


「そりゃ、ルイやハンスのようにハンサムで、肌がきれいで、金髪で、足も長けりゃ、そう思うんだろうけど、日本人であるぼくはそういかないからさ」


「人は人、自分は自分だろ? いつも言ってるけど」ハンスの言葉に、


「そのとおりだね」ルイもうなずく。


「何で日本人は、他人の評価を基準にして自分の行動を決めるんだよ? そもそも自分の行動の基準が他人の中にあるなんて、そんなのどう考えてもおかしいだろ? 他人にどう思われようが、そんなのどうでもいいだろ」


「それは、ほんとにそう思うね」ルイもうなずいた。


「理屈としてはね」ぼくはうなずき返した。「でも、見てくれの悪いぼくからすると、感情としてはなかなかそう割り切れるもんじゃないよ。やっぱり、自分に対する認識って、自分の体とセットみたいなところがあるからさ。だから、もしぼくがハンスみたいに、顔もよくて、肌もメチャ綺麗で、足も長くてみたいな容姿だったら――」


「何故か、オレの名前が無くなったな……」ルイがぼそっと言うと、ぼくは改めて言いなおした。


「ルイやハンスみたいに恰好よかったら、自分に自信を持てたと思うんだけど」

ハンスがくすくすと笑う。


「でも、自分が長谷川隼人っていう人間である以上、長谷川隼人としての劣等感を消すことはできないんだよね。だから、その劣等感を少しでもうめようとしてこうしてメイクしてるわけだし。やっぱり、他人からどう見られているのかっていうのは、ぼくら日本人にとってはけっこう大きな問題なんだよ」


「めめしい国民性だな……」ハンスが苦笑する。


「国民全員から総スカンをくらうことを覚悟で言うと、ガチでそう思う」ぼくはうなずいた。「でも情けないけど、今言ったけど、そこはぼくら日本人――少なくとも一部の日本人――にとっては、理屈じゃなくて感情の問題なんだよね。自分の中の問題って、多くは自分の心の中で勝手につくっちゃうものだから、解決の仕様がないんだよね。だから、めめしい人間だっていうその意見にはマジで反論できないけど、仕方ない部分もあると思うんだよ」


「でも、オレはやまちゃんにデブってバカにされるけど、自分が自分であることを誇りに思ってるぞ」ルイが反論するように言った。「他の誰にもなりたくなんてない」

「だから、そこは人種の違いからくる、先天的な心の持ちようの違いだと思うんだよね。前も二人に言ったと思うけど、日本人ってセロトニン(トランスポーター)が世界で一番少ない民族らしいから、キレやすいって言うことのほかに、生まれつき不安が強い民族なんだと思うよ」


「だからお前も、その不安をごまかすためにそうやってメイクをするという結論になるのか? メイクをすると、不安がなくなるのか?」ハンスが尋ねる。


「少なくとも、このみっともないすっぴんを世間にさらしているよりは、安心感を得られるんだよね」


「スッピン……って何だっけ」とルイ。「すっぴん」という言葉も、基本的に外国には存在しないようだった。


『すっぴん――日本語でメイクをしていない顔のこと』とルイが左腕につけている時計の翻訳機が、機械的な声で説明する。今やIOTによって、時計、眼鏡、イヤリングと、あらゆるものに翻訳機がついている。


「それが本当なら、日本の若者が素顔で外を出歩くことはこれからどんどんなくなっていくんだろうな」ハンスが憐れんだように言う。「隼人を見てるとつくづくそう思うよ。男が中学・高校でメイクが当たりまえで、女にいたってはもうほとんど元の顔がわかんねえもん」


「ハンスの言うとおりかもね」ぼくはうなずいた。「まあ、メイクではないけど、二〇二〇年代のコロナウイルス以来、マスクタウンに住んでいない人でも、外に出るときはずっとマスクつけてるっていう人も、未だに結構いるみたいだから」


 ハンスとルイは顔を見合わせて苦笑した。『マスクタウン』は、二〇二〇年代のコロナウイルス以降、日本の各地にでき始めたコミュニティのことだった。


 ハンスはぼくに視線を戻した。「……何でそうなるんだろうな? 日本人ってマジでいろいろな意味において特殊だよな……」


「やっぱり、自分に自信が持てない人が基本的には多い民族なんだと思う、くり返しになっちゃうけど。自分の中につきまとう不安を、メイクやマスクをすることでまぎらわしてるんだよ。そういう意味で、本当に臆病な民族なんだよ、日本人って。ぼくがその最たる者だから、よくわかる」


「その日本人の臆病さが、日本のすべての問題の元凶だっていうのが、隼人の持論だったよな?」


「うん……」ぼくはうなずいた。「臆病だから相手を気遣い過ぎて忖度しちゃうし、他の国の人たちみたいに陽気になれないし、企業で言えば、ライバル企業を出し抜こうとして必要以上に商品の値段を下げ過ぎて、結局、他の企業との値下げ競争になっちゃって、社会全体で貧乏になっちゃうし、でも臆病だから仕事ぶりだけはどこの国よりも丁寧で、いい物を創って、それを自社・他社ともにタダ同然の値段で買いたたかれてるっていう負のスパイラルに……」


「やめようっ」ルイが虫を追い払うように頭上で手を振りながら言った。「やめよう、やめよう。隼人に落ち込みモードに付き合ってたらキリがない」


「異議なし」ハンスもうなずく。「何で、お前がケンジョウさんの息子なのか、未だにナゾだよ。数字に例えれば、プラスとマイナスくらい性格が違う」


 ケンジョウさんとは、ぼくの父親の名前だった。ぼくがハンスやルイと仲良くなったのは、父親である長谷川謙譲の存在が大きかった。もちろん、超絶ポジティブ思考である父がハンスの言う「プラスの人間」で、超絶ネガティブ思考のぼくが「マイナスの人間」だった。


「ハンス、今度の旅行の話をしようぜ」ルイが気を取り直したように言った。


「そうだな」ハンスはうなずいた。


 今度、三人で行こうと計画を進めている旅行のことだった。


「ハンス、行くところは決めたのか?」


「やっぱり、北海道のマスクタウンを見に行きたいな」


 ぼくはメイクをする手を止めてハンスを見た。「やっぱり北海道にしたんだ?」

「まあ、マスクタウンのパイオニア的なところだし、自然もきれいだから。やっぱり、友だちとの最後の旅行ならそこかなって」


 ルイとぼくはうなずいた。ハンスは来年、家族でドイツに帰国することが決まっていた。彼が言った「最後の旅行」とは、日本での最後の旅行という意味だった。


 ハンスのドイツへの帰国が正式に決まったのは、二カ月前の四月のことだった。決めたのは、ハンスの父親であるトーマス・グルーバーさんだった。


 トーマス・グルーバーさんは、日本政府から特別な補助金を受けた大学が、契約金を支払うことで海外から連れてきたドイツの著名な大学教授の一人だった。国内の優秀な人材が海外に流出するのを食い止めるのと同時に、海外の優秀な人材を日本の大学にどうにかして呼び込もうと、二〇二〇年代の後半から本格的に始まったものだった。トーマスさん自身も、以前に家族旅行で日本を訪れた際、日本の優れた治安や企業の行きとどいたサービスに感心し、日本行きを承諾したとのことだった。けれど、ハンスの話では、四年前に家族で日本に来てから半年も経たないうちに「ドイツに帰りたい……」とトーマスさんが家の中で洩らすようになったとのことだった。その理由としては、

「本来、やる必要のない事務仕事を死ぬほどやらされるため、自分の研究ができない上に、同僚の大学教授はその専門性において極めて疑わしい連中ばかりだ。学生もいつも講義中、黙ってばかりで自分の意見を少しも言おうとしないばかりか、中には好き放題おしゃべりをしていたり、寝ている学生すらいる。おまけに学生の半分は若者ではなく、プライドだけが高い頭のカタい中年ばかりだ。これじゃあ教える側としてはまったくモチベーションが上がらない」

 ということらしかった。


 トーマスさんは、大学で働き始めてからすぐ、日本の大学のそうした状況をSNSで発信し、様々な解決策を提言し、改善を求めてきたが、そのことごとくが大学側に無視されるだけではなく、「大学の内情を世間にあけすけに明かしてもらっては困る」と大学から叱責され、国民の多くからも「日本の税金で、高額の給料をもらっておきながら恩知らずだ」と相当に批判されたのだった。一時は、右翼の街宣車が、毎日のように大学にやって来る騒動にまで発展したらしい。


 ハンスの家にルイと二人で遊びに行ったとき、トーマスさんは、ぼくら二人に向かって憤りを込めてよくこう言っていた。

「この国がこの先、大きく変わることは絶対にないと思う。現在の仕組みを『A』と表すならば、これを『Aダッシュ』にして小手先だけで仕組みを変えようとする姿勢は見せるが、この仕組みを『B』にして、まったく違うものにしようというつもりは日本の社会には見られない。むしろ、問題が起きるたびに『A』につく『ダッシュ』の数だけを増やしていき、物事を複雑にし、現場の労働者を疲弊させている。こんなことでは、物事が改善されるはずがない。改善がされないと判っている環境に自分を置いておくことほど、無駄なことはない」


 その話を聞いたとき、相当ストレスが溜まっているんだろうなとぼくは思った。


 生活の中の無駄を極力排除して、常に最小限の労力で最大限のパフォーマンスを得ようとする整理整頓が得意なドイツ人にしてみれば、余計にそのように感じられるらしかった。日本人であるぼくからしても、反論の余地がないほどの正論に思えた。

そして、トーマスさんの中で、日本に対するそんなマイナスの感情ばかりがつのっていけば、自分の国に帰りたくなるのも当然だった。けれど大学との契約が切れるまでは帰るに帰れない。それが今年度でようやく契約が切れるので、来年の春に晴れて帰国となったのだった。


 当然、ハンスも、父親のトーマスさんと一緒に帰国することになるので、ルイとぼくの二人は、「三人で最後に何か思い出に残ることをしよう」と、ハンスと三人で旅行に行くことを提案したのだった。


「北海道でいいか?」ハンスがぼくら二人に尋ねた。


「ハンスのための旅行なんだから、自分で決めればいいよ」ルイがそう言うと、ぼくもうなずいた。


「じゃあ決まりで」ハンスはうなずいた。「日程はやっぱり、夏休みに入ったらすぐにしよう。その方が旅費が安くなるし、北海道なら六月で梅雨に入っても関係ないし」


 ぼくらが通うインターナショナルスクールの夏休みは、六月の半ばから八月の下旬まであるので、梅雨時ならば人も少ないし、値段も安いからその時がいい、ということだった。


 もちろん、ルイにもぼくにも異存はなかった。安く旅行に行けるのなら、その方がいいに決まっている。


 ぼくらは早速、ネットで帯広の『マスクタウン』の近くにあるホテルを検索し、朝食つきの格安のビジネスホテルを二泊三日で予約した。その後で、三人分の飛行機のチケットと、向こうで使うレンタカーもネットで予約した(自動運転の車ならば、未成年でもレンタルすることができるのだ)。


「お待たせ、野郎ども~」予約を終えたところで、やまちゃんと光さんが二人で料理と飲み物をトレーに乗せて持ってきた。


「何してるの?」光さんがテーブルに料理を置きながらぼくら三人に尋ねる。コーヒーのこうばしい香りがテーブル中に広がった。


「ハンスが来年、ドイツに帰っちゃうでしょ? それで旅行しようっていうことになってて、その話をしてたんです」


「ああ、そういやそんなこと言ってたな」やまちゃんがうなずいた。「はあ、俺の数少ない理解者がこの国から一人いなくなっちゃうのか、悲しいぜ……」


「さっきと言ってることがぜんぜん違うじゃない。むさくるしいから野郎だけで来んなとか言っといて」


 やまちゃんはあきれたような顔でぼくを見た。「それとこれとはぜんぜん話が違うだろ」


 ハンスとルイがくすくす笑いながらうなずいた。「それは確かにそのとおりだな、ぜんぜん違う話だ」


 ぼくは首をかしげて少しだけ考えてみた。「まあ、そう言われてみればそうか……」


「あいかわらず天然ぶりが炸裂だな、隼人」


 ハンスとルイがまたくすくすと笑う。


 ぼくは不愉快に目を細めた。少し発達障害の気があるのだ。


「その天然ぶりのために、将来、孤独の道を歩むことがないようにな?」


「嫌味な詩人だね、せいぜい気を付けるよ」


「やまちゃん、いい加減にしなさいよ」光さんがたしなめながらやまちゃんを睨みつける。


「あ、スンマせん」やまちゃんは光さんに向かって会釈をしてから、「んじゃ、ごゆっくり」キッチンに戻っていった。


「ごめんね、隼人くん。許してあげてね」


 光さんにウインクされて、ぼくはしぶしぶうなずいた(この非現実的なほどの美人を前にすると、言いたいことが言えなくなってしまうのだ)。


 光さんもキッチンに戻っていった。


 なんであんな性格の悪い男に、こんな美人がくっついてるんだ、とこの店でやまちゃんと喧嘩をするたび、ぼくは世の中の不条理に思いを馳せずにはいられない。


「やっぱり、ハンスがドイツに帰ったら、新しく喫茶店を見つけよう」憮然とした表情で言うと、ハンスがまたくすくすと笑った。「旅行の話、続けようぜ」


 ぼくらは旅行の話を再開し、ケーキやサンドイッチを食べながら具体的な計画を練っていった。二泊三日の旅行でどこをどう回るのか、大体の一日のスケジュールを決めていった。三人そろって料理を平らげた頃、おおよその旅行の計画が固まった。時計の針はすでに五時半を回っていた。


 ぼくらはやまちゃんを呼んでお会計をしてもらった。

「旅行の計画はお決まりになりましたか? お坊ちゃん方」やまちゃんがお釣りをテーブルに置きながら、ふざけた声色で聞いてくる(今どき、支払いが現金のみだなんて、どこまでも時代を逆行した店だと思う)。


「おおよそね」ハンスがお釣りを財布に戻しながらうなずいた。ルイとぼくも、お釣りをそれぞれに財布に仕舞った。


「そりゃ、ようございました。お土産よろしくね」


「お金を出すなら買ってくるけど?」ハンスが笑いながら言った。


「ハンスくん、今後のためにお教えしておきますが、この日本では僕の出したお金でぼくが頼んだものを買ってきてもらうのなら、それはお土産とは呼ばないのだよ? 君たち自身が、君たち自身のお金で、僕に何かを買ってきてくれるからお土産と呼ばれるのだよ。ご理解いただけましたでしょうか?」


「悪かったね」ハンスは肩をすくめた。「ドイツには、日本みたいに知人に対してしょっちゅう物を贈るっていう文化がないんでね」


「ああ、そうらしいな。何でなんだ?」


「さあ、何でだろうね……」ハンスは首をかしげた。「まあ、取り立てて意味もないのに、関心のない人間に物を贈ってご機嫌とっても仕方ないと思ってるんだと思うよ」


「ナッートク」やまちゃんは親指でグッドをつくり、大袈裟にうなずいてみせた。「お歳暮だとか、お中元だとか、うわべの人間関係を維持するためだけにわざわざ贈り物をするなんて、まさに形式主義国家ニッポンを象徴する醜悪な慣例そのものだよな」


「まあ贈り物っていうのは、人を喜ばせる行為でもあるから、単純に意味がないとも言い切れないけどね」ルイが反論を込めたように言う。「他人のために何かをするっていうのは、自分のために何かの行動をするよりずっと力が湧いてくるって言うし」


「日本の贈り物のほとんどは、他人のためじゃなくて最終的には自分の利益になるからするっていう、おためごかしの代物なんだよ」


 ルイは目を細めた。「やまちゃん、物事に対してちょっとバイアス掛かりすぎじゃない? いつも思うけど」


「んなこたねえよ」


「んなことあるよ」


「話がズレてる……」ぼくがぽつんと言うと、やまちゃんはうなずいて言葉を続けた。「まとにかく、お土産の方よろしくな、ハンス」


「わかったよ」ハンスはうなずいて椅子から腰を上げ、ルイとぼくを見る。「そろそろ行こうぜ」


 ルイとぼくはうなずき、リュックを背負って同じように立ち上がった。


「じゃあな」やまちゃんの声に背中を押されるようにして、ぼくら三人は店を出た。


「あ~、楽しみだァ」店の前で、ルイが背伸びをしながら言った。空はまだ黄金色で、晩春のやわらかな陽射しが頭上からふりそそいでくる。


「中三のとき以来だよね?」

 ぼくが尋ねると、ハンスとルイはうなずいた。中三の夏休み、ぼくらは三人で沖縄旅行をしていたのだった。首里城、ちゅら海水族館、ひめゆりの塔など、いろいろな観光スポットを一緒に見て回った。


 店の裏の駐車場に入っていく。スマホで自転車のキーのロックを解除し、サドルにまたがろうとすると、スピーカーからけたたましい声を響かせながら、真っ黒な街宣車が近づいてきた。駐車場の金網越しに、ぼくらはその街宣車を見た。


「現実から目を背けるのは止めよう! 世の中には、美男美女がいる一方で、その反対の人間がいることもまた当然のことであり、たとえ自分の姿かたちに自信が持てなくとも、そんなことで自分を卑下する必要がどこにあるのだろうか? 容姿が優れていようがなかろうが、我々が親や祖先たちから脈々と受け継いできたこの誇り高き日本人としての血統に感謝し、日々、国家の繁栄に邁進しようではないかっ。その誇り高き国民性を、資本主義の権化のような連中が創り出したAIなどに汚されてたまるものかっ。無限のバーチャル世界? 『トーキング4』? そんなものはクソくらえだっ。日本国民よ、今こそ仮想現実という妄想から脱却し、目の前の現実と対峙しようではないか」


 自分たちの『尽忠報国論(?)』なるものをまくし立てながら、街宣車はあっという間に遠ざかっていった。


 ぼくら三人は互いに視線を交わし、苦笑した。何故かあの手の連中に出くわすと、妙に気恥ずかしくなってしまう。彼ら自身の独特な正義感――それを目の当たりにすると、あの人たちが目の敵にしている「メタバース」などの「バーチャルな世界」よりも、彼ら自身の方が、ぼくらにとってはよほどフィクションに思えてしまうからだと思う。「男のくせにメイクをするな」とぼくに苦言を呈するハンスやルイと、あの人たちが基本的には同じことを言っていながら、そのハンスたち自身が賛同できていないのがなによりの証だった。


「何か、せっかく旅行の計画が決まったのに、水を差されたね? 気分直しに河川敷でも行く?」


 ぼくが尋ねると、二人はうなずいた。


 ぼくら三人は自転車に乗り、『喫茶店 やまちゃん』を後にし、河川敷に向かった。

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