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とある国のとある街。レンガ造りの建物に、赤い提灯が連なる賑やかな通りがある。和装と洋装が行き交い、どこからともなく聞こえてくるチンドン屋の行進、屋台からは食欲を誘う香りが漂い、子供達が下駄を鳴らして走り去る。時折、軍服の男達が通りすがると、人々は途端に黙り込み、彼らを恐れるように道を開けているが、それが過ぎてしまえば、再び賑やかな音楽と共に人々の明るい声が夜の街を包んでいく。


そんな賑やかな表通りから一本裏に入ると、辺りは途端に静かになる。まるで別の世界に迷いこんでしまったようだが、勿論そんなことはない。静けさが夜を包むようなこの通りにも、表の活気に負けじと繁盛させている店があった。

それが、彼女が踊り子として働いているこの酒場だ。


外の静けさが嘘のように、扉を開ければ陽気な音楽と笑い声がわっと店の外に飛び出してくる。

店内には広い舞台があり、その上では楽団が絶えず音楽を奏で続けている。陽気な音楽に誘われて踊り子がドレスの裾を翻せば、客達も歓声や手拍子と共に体を踊らせ、明るい夜を楽しんでいた。


そんな中、彼女は踊り子の衣装のまま、舞台ではなく店内フロアの裏側、事務室と呼ばれている部屋に呼び出されていた。

店内は広いが、その裏側は狭く、店内の賑やかな声に混じり、厨房からは慌ただしく調理をする物音や荒々しい声が聞こえてくる。それでも事務作業の他、大事な話をする部屋でもある為か、この事務室の周囲が一番静かだった。

とはいえ年季の入った建物だ、店の裏側までは掃除が行き届いていないので、廊下には荷物を積んだダンボールが置かれたまま埃をかぶり、壁も、彼女の目の前にある事務室の扉も薄汚れていた。


彼女はひとつに結った髪を左肩に流し、派手に化粧を施した瞳を不安そうに揺らしている。立ち止まった事務室の扉の前、彼女は小さく深呼吸をすると、意を決したように扉をノックした。すると、中からはすぐに「どうぞ」と、柔らかな低音が聞こえてくる。彼女は「失礼します」と、恐る恐るといった様子で声を掛け、その扉を開けた。


事務室は客が来ているというのに、相変わらず片付けも行き届いていないようだ。そんな部屋の中に居たのは、この雑多な部屋とは随分と不釣り合いな人物だった。


「あなたが、マリアさんですね。どうぞ、こちらへ」


彼女は戸惑いを覚えながらも、促された席に腰を下ろした、衣装のフリルが足元を擽る。

テーブルを挟んで彼女の対面に腰掛けたのは、軍服姿の青年だ。テーブルの端の方には、彼の物だろう、刀や銃といった物が置かれている。軍人が常に身につけているもので、それを外しているのは、敵意がないという表れだろうか。

彼女は、そろりと軍人の青年を見上げた。

彼の表情は穏やかで、纏う雰囲気も柔らかい。品がよく、誠実そうというのが彼の印象で、彼女の知る軍人は、いつも暴力的な振る舞いで人を見下してばかりなので、こんな風に人の良さそうな軍人の姿は、逆に落ち着かなかった。


「…あの、私、何かしてしまったんでしょうか…」


とは言え、彼がどんなに誠実で人当たり良く見えても、軍人は軍人、彼女にとって軍人と呼べる人々は、信用出来ない存在だった。彼女は不安そうに膝の上で手を組み、か細い声で尋ねた。この店の店主から、軍人が自分に話があるようだと聞いてはいたが、彼女には軍人の世話になる覚えがなかった。


少なくとも、踊り子のマリアとしては。


「そう構えないで下さい、僕はあなたを捕らえに来たのではありませんから」


青年は彼女を安心させる為か、にこやかに表情を緩める。その声は、偽りなく優しい。


彼女は、不安を滲ませながら、まじまじと彼を見つめた。

年は自分と同じ頃だろうか、彼女はそう思ったが、自分の年齢がはっきりと分からないので、二十代後半位だろうかと想像した。彼のピシッと伸ばした背筋は崩れる事はなく、しかし高圧的な態度は一切見せる事はない。それどころか、彼女を見つめる瞳には、悲しみと慈しみのようなものが混じっているように感じられた。踊り子を憐れむ眼差しは見慣れたものだが、それとは少し違うように感じられ、彼女はその眼差しの意図が分からず、妙に騒めき始める気持ちを、胸の内でこっそりと落ち着けた。

警戒をしなければならない、彼女は心の上に幾重にも仮面を重ねて、最後に不安で蓋をする。そうすれば、彼女は踊り子のマリアでいられる。


「それじゃ、一体…軍の方が私なんかにどのような用件が…?」


態度では怯えて見せているが、彼女はこの軍人が自分を捕らえに来たのではないと分かっていた。もし捕らえに来たのなら、話などせず問答無用に連れ出す筈だ。この国の軍人は、店が営業中であろうとなかろうと、土足で踏み込み現場を派手に荒らしていく。彼女でなくとも、誰もが知る光景だ。

それをしないとなると、踊り子の自分に個人的な話でもあるのだろうか。考えられるのは、彼女の本職に関する話だが、それならば、店主から何らかの合図がある筈だった。


彼女が踊り子のマリアを演じながら思案していると、青年が軍服のポケットから写真を取り出した。

テーブルに並べられていくその写真を見て、彼女は僅かに眉を動かした。


テーブルの上に並べられた写真は、三枚。

一枚目のエプロンを掛けた高齢の女性は、九条家の使用人。二枚目のドレスを着た若い女性は、二島家の令嬢。三枚目の上質なベストを着た男性は、矢坂家の三男坊。どれも名家の人々で、政府や軍と繋がりのある家だ。

並べられた写真の人物を、青年が写真に目を落としながら説明していく。それを、彼女は冷ややかな瞳で見つめていたが、彼が写真から顔を上げた時には、彼女は踊り子として恐る恐るといった様子で青年を見つめていた。


「あの、この人達がどうかしたんですか…?私と関係があるようには思えませんが…」

「これは全て、あなたですね」


しっかりと届けられた言葉に、彼女はきょとんとした。それから、揺らがずにまっすぐとこちらを見つめる瞳に、彼女はますます困惑の表情を見せた。どういう訳か、彼はこの写真の人々が踊り子のマリアであると、本気で思っているようだ。


「どう見たって違うと思いますが…」


彼女は困惑の末、肩を竦めて苦笑った。写真の人物達をよくよく見比べても、みんな別人に見える。年齢も醸し出す雰囲気も性別も違う、それらは踊り子である彼女ではない、そう自信を持って言える。だが、彼も自分の考えを揺らがすことはなかった。


「変装です。これほどの技術、軍の諜報部隊でもなかなかいないでしょう」


更に、彼はさらりとそう言ってのける。それからテーブルの上で手を組むと、彼は話を続けた。この写真がどこで撮られ、この人物達が何故この場に現れ、その後、彼らの関わる家で何があったのか。ある家では金が、ある家では権力を失い、ある家では、この国に関する情報が抜き取られていたという。


「勿論、あなた一人の犯行ではないでしょう」

「…え、待って下さい、私はただの踊り子ですよ?」


話がどんどん大きくなっていき、彼女は戸惑いながらも否定した。自分をしっかり見てくれと、ただの踊り子に、どうしたらそんな芸当が出来るのか。しかし、彼がその思いを譲る様子はない。

確信を得る証拠でも掴んでいるのかと思ったが、それでも、証拠は何も出ていない筈だと、彼女は踊り子の仮面の下で、動揺するな、大丈夫だと、自分に言い聞かせた。


彼女がそうやって自分を鼓舞しているのも、彼が言っている事が全て事実だからだ。



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