時間に節をつけるとすれば

あじさし

時間に節をつけるとすれば

 昇り始めた日がすっかり乾いた帰り道を照らす。駅へ向かう人々の姿はまだまばらな時間帯で、私はロボットのように単純な動作でスーツや制服姿の人々とすれ違った。当直には慣れてきたけれど、足が棒のようだ。手頃な角を見つけたら肩のくぼみに押し当てたかった。勤務のオン/オフの切り替えが緩慢なせいか、きらめく朝日のせいか目は冴えていた。

 河原の横の道に入ってしまうと川のせせらぎ以外本当に音が無い。疲れすぎて眠れそうにないときでさえ、この時間が好きだった。橋の下を通り過ぎたとき、冷蔵庫の中身としわくちゃになったシーツを延ばして寝転ぶ事だけが頭を占めていた。ショート動画のような映像が停止されたのは違和感が網膜の端っこを通じて白けた脳の縁を掠めたせいだった。

 白いゴミ袋と紙屑、空き瓶、数羽の烏。トンネルの真ん中にうずくまる人の姿を見とめた瞬間、違和感の正体を脳で理解し、私は来た道を引き返す。

 Tシャツに淡い青のデニム、短い髪がゆるくウェーブしていてすぐには分からなかったけれど、身体を起こしたときにどうやら女らしいと分かった。彼女の紙のように白いほおを軽く、リズミカルに叩く。

「大丈夫ですか。起きてください」

 少年のようにも少女のようにも見える頭が急に傾くと息を大きく吸い込む。酒の匂いがする。

「あれ?ここ」彼女はうっすらはれぼったい目を開けた。

「橋の下です」

 彼女は横を向くとすぐ目を閉じた。

「ここで寝ちゃダメです」

 夏の初めとは言え、朝方は半袖では肌寒いくらいなのだ。

「起きなさい!」再びほおを叩くと一の字に結ばれたくちびるから息が漏れた。

「ねぇ、立てる?」

 彼女の頭を支えると咳込んだ。私は彼女を腕で抱いて傾け、背中を撫でた。鞄の中から水筒を取り出すと咳が止まった彼女にお茶を飲ませた。お茶を飲んでしまうと彼女は自分の腕をしきりに擦る。小刻みに震えているのが分かる。

「あ、ありがとうございます。あとは大丈夫ですんで」と目も合わさず呟いた。

「いや、どう見たって大丈夫じゃないでしょう」

「会社へ行くんじゃないですか」ハスキーな声が妙に女の容姿とあっていた。

「ううん、これから帰る所」

「どっちみち悪いっすから。私この近くなんで」黒目がまっすぐ見据えたかと思うとすぐ横に行く。

「そう。じゃあ日の当たる所まで送ります」

 数秒の間があった後で彼女は、肩を抱えてくれるよう私にお願いした。トンネルを抜けると日光が目を射る。川の反対側から差す太陽が辺りの草原に青々とした生命の色を与えている。

「呑み会でもあったんですか」

「まぁ、そんなとこです」と彼女は隣の区にある居酒屋の名前を挙げた。

「仲間内で呑んでて。二軒目以降もその近くで呑んでて、電車もとっくになくなっちゃったから歩いて帰ってきたんです」

「で、途中で寝ちゃって朝になっちゃったんだ。学生さん?」

「いや、一応自営業で」

「大人」と私は思わずつぶやいた「やっ、それは失礼しました」

「いえ、こちらこそなんかすいません」

 なんかじゃないよ、と心の中で突っ込んだ。

「仲間の人とは一緒じゃなかったんですか」

「ええ。みんな私とは方向が違うんで」

 最初に頭をよぎった最悪の事態は想定しなくてもよさそうで少し安心した。その一方で、眠気が少しずつ沸き起こってきた。おのずと声が高くなる。

「それにしても寝ちゃうまで呑むのは、考えた方がいいと思いますよ」

「面目ないです。あ、この辺りで」と彼女は草の丈が低くなったところに寝転ぼうとする。

「きちんと水分取るんですよ」

「ちょっと寝たら近くのスーパーでジュースでも買います」

「このあたりドラッグストアはあるけどスーパーは結構歩かないとないよ」

「えっ」彼女は地名を口に出したがそれは今さっき話に出た隣の区にあるのだ。

「大丈夫。駅なら来た道を戻って橋が見えたら左に曲がって道なりに行けばありますから」

「そうですか。ここまでありがとうございます」

「ううん、気をつけてね」

 真っ白なほおに少しだけ赤みが差し始めた女の行方が気にかかったけれど、それ以上に、急に来た眠気には勝てそうもなかった。

「おやすみなさい」と朝日を遮りながらいうと彼女がその場でうなづいた。

 私が再び河原の道を歩き始めた時、くぐもった声にもならない声の連なりが背後から聞こえた。断水が終わって最初に開ける水栓の事をなぜか連想した。

 彼女は誰かの首でも絞めるような手つきでその場に立ち尽くしている。自分の首を締めて嘔吐を止めたかったのかもしれない。

「あはっ、気まずいっすね」

「私の部屋近くだからすぐ洗濯とお風呂は入れられる」

「いや、そこまではさすがに」

「今、困ってるでしょ。そのまま電車乗るの?」

「それは……」

「いいよ。それぐらい」

 私はとにかく眠りたかった。だから、彼女と遠慮の応酬をしていることすら煩わしくなっていたのだ。


 私は彼女を連れて歩き、マンションのエレベーターを昇って部屋に戻ると熱いお湯で顔を洗わせ、旅行先でもらって使わなかったアメニティの歯ブラシを渡した。その間に風呂を入れて、部屋の隅で正座をしている彼女を低めのチェアに座らせてお茶を飲ませた。

「すいません。部屋着までお借りして」

「後で他の洗濯物と一緒に洗っちゃうし別にいいよ」

「すいません」と彼女がおずおずとその場で頭を下げる。

「すぐ洗い終わると思うから」

 女同士とはいえ、よく素性も分からない相手を部屋に上げるとは我ながらどうにかしていると思った。学生時代以来、友達でさえ部屋に呼んだことがほとんどなかったからなおさら不思議な感覚だった。学生の頃は友達が呼んできた友達やそのまた友達と遊んだりすることもあったけれど、今の職に就いてからは素性の分からない相手に会う機会自体がほとんど無くなったことに気が付いた。

「お風呂沸いたみたい。入ってきて」

「ありがとう」

 どこかしら懐かしさを感じさせる響きだった。

 テーブルに寝転んで腕枕を組むと穏やかな海を思わせる眩暈が襲ってくる。風呂場から聞こえてくる水音に耳をそばだてて、彼女が上がってくるまではこうしているつもりだった。


 目が覚めるとベッドの上にいた。いつの間に移動していたのだろうか。換気扇のスイッチが切られる音がした。熟れた木の実がその重みで落ちた後の枝のような豊かな無が肌を包んでいた。

 しかし、玄関から物音がすると我に返り、私は起き上がった。

「起きたんですね。お風呂、ありがとうございました」彼女の声は出会った時と同じ低さのトーンだったけれど、心なしか朗らかに聞こえた。

「ご飯もうすぐ炊けると思います。あと、鍋に味噌汁作ったのでどうぞ」

「待って。そんなこと頼んでない」と言うと彼女は困った顔をした。

「だってそうでしょ。部屋に上げたとはいえ勝手に人の家の冷蔵庫開けるのはどうなの」

「確認したんですよ、あなたに。そしたら何か作ってくれるなら味噌汁でも三平汁でもいいって。冷蔵庫のもの使っていいって。ベッドに運んだ時にそう言って」

「え、あなた。えぇっと」

「シュウと言います。名乗りが遅れて失礼しました」

「そうじゃなくて、ベッドに運んでくれたの?」

 シュウはその場で頭を縦に振った。私は寸での所で顔を手で押さえるのを堪えて言った。

「シュウさん、このあと予定は?」

「帰って夕方まで寝る、くらいですが」

「一緒に食べよう。そうでなきゃ寝覚めが悪いわ」

「じゃぁ、遠慮なく」彼女は靴を再び脱いだ

「しかし、せっかく起こしちゃ悪いからそっと抜け出すつもりだったのに、これじゃかっこつかないっすね」

 ばつが悪そうに笑う切れ長の目が午前の光に照らされる。その中にある虹彩の色は私が思っていたものよりも薄くて瞳孔をくっきりと浮かび上がらせていた。

「どうしました?」

「ううん。さ、こっちに」

 素っ気ない返事とは裏腹に、まだ少し濡れている髪と同じ色をした瞳孔が猛烈に胸の中に焼きついていた。紙束にパンチで開けた穴のようにそれは決してなくならないだろう。昼が夜に、夜が昼になるように先ほどの気まずさが喜びに似たなにかになって身体中を駆けめぐった。

「シュウさん」

「はい?」

「ちょっと顔洗ってくるからテーブル座っててください」

「分かりました」

 聞きなれない響きの名前。苗字なのか下の名前なのか、それとも本名ですらないかもしれないそれは私の身体を巡る熱の呼び名となった。

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