第57話
それ以来、俺があの世界に迷い込むことは無くなった。
俺はあの後、いつもどおり自分の寝床で目を覚ました。節々が痛い気もしたが、ジジイともなればそういう朝もままある。細かい不調をいちいち気にしていたら、それだけで残りの人生が終わっちまう。無視だ、無視。俺は冷や飯に桃屋の塩辛を乗っけて、熱い番茶を掛けて朝飯とする。勿論、脇ではショコラがいつものドッグフードをがっついている。こちらの様子も、変わりない。
飯を食って、クソを出して、新聞を読み終わったら、ショコラと散歩。途中、スーパーで食料品を買い足して、帰宅。四角い部屋を丸く掃いたり、クロスワードを解いたりしているうちに、気が付けば夜だ。毎日がこんな具合で、めりもはりも、山も谷もない。ああ、何て落ち着く暮らしだろう。ジジイの日常、かくあるべし。
時々は、孫がやって来る。俺の世話をするためではない。きわどすぎて18禁か有害図書に指定したいようなBLマンガの保管場所として、俺の家を使っているのだ。男子にとってのエロ本と同じく、親には見せたくないらしいのだが、ジジイに読ませるのは気にならないというのが不可解だ。
そんな時、孫はふっと思い出したようにあの世界の話をする。孫も忘れてはいないようだ。だが、話したところで、何が変わるわけでもない。それに、俺とて、あんな恥ずかしい恰好を孫に見られて、それを話題にされるのは非常に居心地が悪い。できれば、永遠に闇に葬って、触れてほしくない黒歴史だ。そうやって俺が気なしを装うので、孫も大して深入りはしない。
ただ、どこから引っ張り出してきたのか、孫は俺の昔の写真などを眺めて喜んでいる。
「ほらー、見て見て。昔のおじいちゃん、めっちゃ可愛いでしょう。」
「うわあ、本当にあの顔のまんまですね。捏造じゃなかったんだ。」
何故か上がり込んでいるのは深谷である。ショコラを撫でながら、俺のガキの頃の写真を見て、孫とやいやい騒いでいる。
「うるっせえな。自分じゃ見えてねえから、知らねえよ。第一、俺はともかく、お前さんはどうなんだよ。」
「へへへ、そう言われると思って、探してきました。」
深谷はスマホを取り出して、画像を映し出した。カラーではあるが、いかにも昭和な色合いの中に、華奢な美少年が写っている。俺は思わず膝を寄せてスマホを眺め、目の前の脂ぎったおっさんと見比べた。
「深谷さん、これ加工してあるでしょ。信じられないもん。」
「はああ…これが、こうなっちまうとはなあ。歳月ってぇのは、罪深いな。」
「お二人とも、失礼ですねえ。」
娘がこの間虎屋の羊羹を何本か置いて行ったから、それをお裾分けしてやろうか。そう考えていたが、やめた。深谷が摂取すべきは糖分ではなく、野菜だ。ハゲはしょうがないが、少し痩せて、皮脂をこまめに拭けばマシになるだろう。素材は悪くないのだから。
俺は、昨日こさえた筑前煮をタッパーに詰めて持たせ、深谷を追っ払った。タッパーは百均だし、返さなくていいと言ったが、深谷は後日几帳面に返しに来た。しょうがないので、今度は小松菜と油揚げの辛し和えを詰めてやると、しばらくしてまた空のタッパーを持ってくる。何て奴だ。俺は総菜屋ではないぞ。
こうして、あの夢の前と比べると、俺の日常は少し賑やかになった。ショコラとふたりきりも良いが、これも悪くない。
そうやって、秋が過ぎ、冬が過ぎ、春が終わって、また暑い夏がやって来た。俺もショコラも、あれから1年近く老いたが、俺の1年よりショコラの1年はずっと重い。近頃はめっきり衰えて、散歩も難しくなってきた。獣医が言うには、心臓も良くないらしい。いつか別れると分かってはいるが、心につららがぶっ刺さったような、痛くて冷たい気持ちになる。
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