第39話

「なあ、ショコラ。少しくらい、休憩としゃれこもうや。」


 俺は身を起して、ショコラを撫でた。ここで末期を迎える可能性があるなら、今のうちに別れを惜しんでおきたい。見た目と性格が違い過ぎるが、ショコラはショコラ。俺の大事な相棒だ。


「お前と話ができるのも、ここだけだしな。向こうじゃ、お前はワンとも言いやしない。どっか悪いのか?」

「そんなことないよ。小っちゃい頃はちゃんと鳴いたんだから。」

「ん、そうだったか。」

「鳴くと怒られるから、やめたんだ。」


 そんなこと、あったかな。イヌ畜生に鳴くなとケチ付ける方がご無体ってもんだろうが。どうも、思い出せないことが多い。俺もボケたか。ここから生きて帰れるなら、完全に脳みそのタガが緩む前に、自分で老人ホームを探さにゃならんか。どっちに転んでも気が滅入る。


「父つぁんは、いつも優しかったけどね。」

「おう?そうだったか。」


 そんなつもりも、別にない。ショコラがうちに来たのは、俺はおっさんからジジイへ昇格した頃だった。イヌをベタ可愛がりするような年でもない。飯を食わせて、下の世話をして、散歩をさせて、あとは放っておく。向こうから俺に近付いてくりゃ、撫でるくらいはするが。ペットを「うちの子」と呼び、己を「パパ」とか呼ぶことにさえ俺は抵抗があるのだ。イヌはイヌだろ。


 だが、言われてみれば、ショコラが来たばかりの頃はキャンキャン吠えていた覚えがある。仔イヌなんてそんなもんだろうと思っていたが、気が付くとワンの一つもなくなっていた。


 一体、いつからショコラは静かになっちまったんだろう。俺はぼんやりと記憶の底を探った。輪郭の曖昧な情景の中に、機嫌の悪そうな女の顔と声が浮かんできた。


「ああ、そうか。思い出した。あいつがイヌの声を嫌がったんだったな。」

「あいつ?娘さんですか。」


 いつの間にか、ショコラを挟んで俺と並んで座っていたプラが不思議そうな顔をする。俺はかぶりを振った。


「いんや。昔の女房さ。くせえ、うるせえ、言うことを聞かねえ、ってな。」

「ああ…イヌが苦手だったんですか。」

「そうでもねえぞ。他所のイヌはかわいがってたからな。ただ、生き物じゃなくて、偶像としてのイヌが好きだったんだろうな。」


 あるいは、イヌに俺を取られて嫉妬、とか。いやいや、それはないな。そんな、昔の刑事ドラマのつまんねえ脇役みたいな女ではなかった。第一、あの頃にはあいつには他に男がいた。俺がイヌと何をしていようと眼中には無かっただろう。純粋に、ショコラが気にくわなかったとういことだ。仔イヌの若さと可愛さが憎いという白雪姫の継母みたいな心境なのか、自分の縄張りを荒らされるのが気にくわないという動物的な心理か。その辺は分からないが、一度でも気に入らないと認識したものは徹底的に排除する気難しさがあったのは確かだ。


 俺はふっと息を吐いた。ショコラには、謝らにゃなるまい。


「すまんな、小せえ頃に、要らん苦労をさせちまったな。」

「別に良いよ。その後の方がずっと長いから。父つぁんと暮らすのは、ボクは楽しい。」

「楽しそうにも見えねえんだよなあ…お前、しっぽもあんまり振らねえし。」

「それは、疲れるしめんどくさくて…。」


イヌのセリフとは思えん。どこの年寄りだ。まあ、ショコラはもうだいぶ年寄りではあるが。


 ばかばかしくなって、俺は笑った。変声期前の高い笑い声だ。慣れたくもないのに、すっかり慣れちまった自分がいる。胡坐をかけば剥き出しのピチピチの太ももが見えるし、すね毛も無くてつるつるで、頭をバリ掻けばそっちには毛がフサフサだ。俺にも現実にこんな頃があったのかな。もう、思い出せねえや。


「なあ、深谷よ。プラでなくて、深谷に頼みだ。」

「あ、はい、何でしょうか。」

「俺がショコラより先に死んじまったら、こいつのことは頼むわ。娘一家もいるけどよ、どうも旦那がイヌ苦手っぽいんだ。」


 婿は性格はいいやつなので、孫がイヌを拾って来た時にも拒絶はしなかったが、基本的に動物が好きではないらしい。ショコラを押し付けたら婿にも悪いし、ショコラも気の毒だ。残り短い余生を、穏やかに過ごさせてやりたい。幸い、ショコラは深谷に懐いている。


 深谷はしばし沈黙していたが、やがて頷いた。


「分かりました。じゃあ、帰ったら、ペット可のマンションに引っ越します。」

「あ、ダメなのか。」

「いえ、あの、今の部屋はダメですけど、大丈夫です。ショコラちゃん見てたら、私もペットほしくなっちゃいましたから。やっぱり、一人は寂しくて。」


 こいつで大丈夫だろうか、色んな意味で。俺は頼んでおいて、少し後悔した。とはいえ、今更前言撤回もできやしない。


 だが、当のショコラが深谷の膝に収まって丸くなっているから、良しとしよう。おっさんの深谷とよぼよぼショコラの取り合わせも渋くて良いが、紅顔の美少年と桃色宇宙生命体のセットも悪くないな。互い違いではちっとまずい。

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