第36話
「あ、私、塾の時間だから行くね。おじいちゃん、今度マンガ持って行くよ。ショコラ、またね!」
「おう、気を付けてな。」
孫は小鹿が跳ねるような勢いで遠ざかっていった。俺は漸くショコラから手を離し、腰を伸ばす。とんとん、と腰を拳で叩きながら再度記憶の海を探るが、網には何も掛からない。俺は田中結愛を知っていたのか。会ったことがあるとしても、からきし思い出せない相手を「知っている」と称して良いのか。きっと、それは知っているに値しないだろう。俺にとっては、ケレも田中結愛も、初対面の女子だ。向こうも、あの姿の俺を見て正体に気付いたとは思えない。
いや、待て。
俺にはショコラがいた。名字は名乗った。正体がジジイであることも説明した。それならば、余程のうすのろでも気付くんじゃないか?俺が友人の祖父だってことに。
「そうか。ケレは、アウルムが俺だってことに気付いていたんだな。」
「ええ、そうでしょうね。」
「…その上で、俺にお前と絡めって、指示をくれたわけか。いい根性してやがる。」
正直なところ、その感性は俺の理解の範疇を超えている。沼の中では、人は見た目が100%なのかもしれん。感傷に浸ろうにも、微妙にあの時の記憶の肌触りが悪すぎて、そういう気分にはならない。
だが、田中結愛がその本領を余すとこなく発揮した人生の一幕だったというのは、よく分かった。少し、羨ましいような気もする。俺はあいつより随分と長く生きているジジイだが、そんなにも思い切り良く我を通したことは無い。
「やれやれ、だな。結局、俺たちは田中の妄想に振り回されたってことなのか。」
「どうでしょうか。それはちょっと苦しい説明だと思いますけど。田中さんの登場は我々より後ですし。」
「細けえこたあ、どうでもいいさ。どうせ、隅から隅までは分かりっこないんだ。」
「…それもそうですね。」
俺とショコラ、それに深谷の影が長く延びている。長い昼が終わろうとしているのだ。残暑厳しいとはいえ、着実に日は短くなってきた。
「それにしても、どうして私が巻き込まれたんでしょうねえ。」
「何だその、自分は被害者ですってな物言いは。」
「だって、小林さんと田中さんはつながりがあるじゃないですか。あ、勿論、ショコラちゃんも。でも、私はたまたま同じタイミングで同じ部屋に入院しただけの、脂ぎったおっさんですよ。」
「俺に文句言うなよ。俺だって、好きでやってたわけじゃねえぞ。」
俺と深谷はぶつくさ文句を垂れ合いながら、公園を出た。そのままの勢いで、俺の家まで戻ってきてしまう。
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