暗き冥界の底で貴方の帰りを待つ

片海 鏡

一章 冬の睡蓮と冥界

第1話 月下に咲く睡蓮の花

 父である太陽の男神アギスの馬車が天空に弧を描き、黄昏の幕が引かれ、夜の女神ニネティスの帳が降ろされる。

 瑠璃色の天上には英雄達のともしびが瞬き、旅人達に道を示している。

 光を宿す若き男神ゼネスは灰赤色のローブで身を隠しながら、霊峰の谷間よりそれを見送ると、深い闇へと足を運ぶ。

 母である豊穣の女神メネシアの恩恵を拒絶するように、雪に覆われた地。

 吐く息は白く凍りながらも、足元は恩恵おんけいを受けて雪は解け、若草色の春の息吹が僅かに顔を覗かせる。

 ゼネスが目指す先は、山脈の清水がこんこんと湧き出す泉。

 この泉には夜にだけ咲く睡蓮がある。そう親友である伝令の神が話してくれた。

 睡蓮は、昼に花を咲かせ、夜になると閉じて水中に沈む姿から、そう名付けられた植物だ。夜に咲くことはまずあり得ない花。親友はお喋りだが嘘を付く様な男神ではない。

 妖精の悪戯なのか。それとも、本当に夜にだけ咲く睡蓮なのか。

 好奇心に駆られたゼネスは、一日かけてその泉へと歩き続けた。

そして、ようやくその場所へと辿り着く。


「想像よりも、ずっと綺麗だ……!」


 視界を狭めるフードを外した。思わず声に出る程に、その光景は美しい。

 黄金を湛える満月が浮かぶ夜空の元、泉より真珠のようにつやめく薄青色の蕾が水面に浮かび上がる。透けるほどに薄い花弁の中には淡い光を内包している。

 興味深そうに見ていると、蕾が音も無くゆっくりと広がり始める。

 大輪の花が次々と咲き、蛍のように淡い光が浮かび上がり、月に溶けて行った。

 ゼネスはその美しい光景を堪能する。

 人間で例えるならば20代の若い男性。短く整えられた小麦色の髪は、毛先が時折炎のように揺らめきながら赤や黄と色を変化させ、燃えない火の粉を生む。新緑の双眸そうぼうはまるで蒼天そうてんに輝く草原のように光を内包している。朗らかでありながら精悍な顔立ちに、筋肉質の均衡きんこうの取れた無駄のない体。今はローブで隠れているが、上質な布で作られた刺繍がふんだんにあしらわれた茜色の衣を見にまとい、腰には剣を携えている。

 目の色は母似。髪の色と顔立ちは父似。独自の体質も父由来だが、能力の性質は母に近く、強い生命力を感じさせる。


「よし……」


 妖精達の姿は無く、風の吹かないその場所でひとしきり観賞を終えたゼネスは、母への手土産に睡蓮の花を一輪取りに、泉の中へと入る。

 透き通る泉の水深は思いのほか浅く、ゼネスの腰程までしかない。水の冷たさに臆することなく、底の土に足を取られない様に気を付けながら、彼は睡蓮の元まで歩みを進める。

 咲き誇る睡蓮からはほのかに柔らかく甘い香りがする。

 ゼネスは一際大きく美しい睡蓮の花の茎を掴んだ。


「————!?」


 足に何かが絡まり、体制を崩したゼネスは泉の中へ落ちた。

 睡蓮の根は土底の中に隠れている。妖精であったとしても、豊穣の女神の息子に対して馬鹿な真似は出来ない。

 ならば、これは何なのか。

 ゼネスは何とかして振り払おうもがき、激しく水飛沫が舞い散る中で腰に携えた剣へと手を伸ばすが、それよりも早く足が下へと沈んでいく。

 水深は腰までの筈だった。

 月明かりの見える水面が遠のき、まるで海の中にいる様に底の知れない深さが広がっている。

 深淵は口を開け、ゼネスを飲み込んだ。

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