第9話 気分転換

 帰ってきてからも、直桜は部屋に籠ったきり、出なかった。

 ここ数日は、顔も合わせていない。

 トイレと風呂とキッチンが共同スペースになっているのは、こういう時は厄介だ。


(何日かは外の仕事がなかったな。終日一緒は、今はしんどいから、良かった)


 ベッドに転がって枕を抱き締める。

 自分の中のモヤモヤを、どうにも消化できない。


「あぁ! くっそ!」


 枕を投げようとして、スマホが光っているのが目に入った。

 楓からのメッセージだった。


『夏休み中は、ずっとバイト? 暇があったら、会わない?』


 なんてタイミングが良いのだろうと思った。

 ここのところ、化野とばかり顔を合わせていたから、良い気晴らしになる。

 明日会う約束をして、直桜は何とか眠りに就いた。



〇●〇●〇


 楓と会うのは久しぶりだ。

 駅前で約束をして落ち合うと、楓がパンケーキが美味しい店に連れて行ってくれた。


「直桜って甘いもの好きだから。バイト頑張っているご褒美にね。美味しい?」

「うまーい。マジ幸せ。生きてて良かった」


 一口頬張ると、口の中に幸せが広がる。


「俺が好きなものとか、よく覚えてんなぁ。楓ってマメだよな。だからモテんだなぁ」

「直桜だから、覚えてるんだよ」


 不意に顔を上げると、楓ににこりと微笑まれた。


「ねぇ、直桜。前にさ、大学に直桜を捜しに来た人がいたって陽介に聞いたんだけど。今のバイト先って、その人の所?」


 急な話題に、ドキリとする。

 特にやましいこともないのだが、化野のことを思い出すと、今は何とも複雑だ。


「うん、まぁ、そうだよ。三か月、住み込みでバイトしてる」

「だから家にもいなかったんだ。実家に帰る話はしてなかったし、心配したんだよ」


 そういえば、そんなような話を陽介ともメッセージでした気がする。


「言ってなかったよな。心配かけて、ごめんな。元気でやってるから大丈夫」


 ははっと笑って見せるが、楓の表情は晴れない。


「三か月の短期バイトなんだよね? それが終わったら、うちの系列でバイトしない? ドラッグストアのバイト、多分空きが出るんだ」

「マジか! ……んん」


 少し前の直桜なら、きっと飛びついていた。


(確かに三か月の期限付き。だけど、延長になることも……。俺の気持ち次第、ていうか、どっちかっていうと化野次第だよな)


 この前の仕事で口喧嘩まがいの言い合いをしてから、碌に口もきいていない。


(もし仮に、俺が無理やり化野の中の魂魄を祓ったら、もうバディではいられないだろうな)


 初めからそのつもりだったし、そういう契約だ。

 普通の一般人として生きるなら、今の仕事は続けるべきじゃない。


「そ、だな。考えとくよ。今のバイトも、どうなるかわかんないし」

「……そう」


 頷いた楓は、悲しそうな顔をして笑んだ。


 パンケーキ屋を出た後も、ゲーセンやら買い物やらとひとしきり遊んでいるうちに、あっという間に夜になった。


(さすがに、そろそろ帰らないと心配するかな。何も言わずに出てきちゃったし)


 と、考えて頭をぶんぶん振った。


(いやいや、子供じゃないんだから、別にいいだろ。親でも恋人でもないんだし)


 ふと、目の前の雑貨屋に並んでいる眼鏡ケースが目に留まった。


(デザイン格好良い。化野、使うかな。てか、いつも眼鏡している人って、ケースに眼鏡しまう瞬間とか、あるのかな?)


 首を傾げて悩んでいると、後ろから楓がにゅっと覗き込んだ。


「眼鏡ケース? 直桜が使うの?」

「え? うん、まぁ。伊達眼鏡とかどうかなって! ケースの前に眼鏡だよな!」


 あまりにも苦しい言い訳をしてしまった。


「この前、直桜を捜しに来たのって、眼鏡の人って話だよね」


 楓が、ぽそりと呟く。


「その眼鏡の人と、一緒に住んでるの? 住み込みのバイトだったら、そうだよね?」

「ん? まぁ、そうだけど。部屋は別だし、そこまで顔を合わせる訳では」


 楓が直桜の腕を引っ張る。

 少しだけ態勢が崩れて、前に傾いた。

 直桜の唇に、楓の唇が触れた。


「……え?」


 あまりにも突然で、しかも一瞬で、何が起こったかわからなかった。


「その人と、こういうこと、する?」


 楓が真剣な顔で直桜に迫る。


「こういう? え?」

「俺は直桜とならキスできる。直桜じゃなきゃ、嫌だ。直桜は俺のこと、どう思ってる?」


 楓の瞳が切なく歪む。

 その顔が化野と重なった。


(化野、俺にキスされた時、どんな気持ちだったんだろう。もし、好きでもない奴にキスなんかされたら、きっと嫌だったよな)


 胸が締まって、痛い。


「楓、ごめん。俺、楓のこと、ずっと友達だと思ってて、多分これからも友達なんだと思う。ずっと友達で、いたい」


 都合のいいことを言っていると思う。

 けどこれが本音だった。

 楓が諦めた顔で笑った。


「そっか、そうだよね。急にごめん。俺、ちょっと変になってたかも。今の忘れて」

「忘れたりしねーよ! 楓が俺のこと好きだと思ってくれんのは、嬉しいよ。応えられない俺が、本当、ごめんとしか、言えないけど、でも、その、ありがとう」


 語尾がどんどん小さくなる。

 申し訳なさが、きっと顔にも出ていると思う。

 そんな顔したくないのに、どうしたらいいか、わからなかった。


「俺、直桜のそういうトコ、好き。応えてくれなくてもいいから、ずっと直桜のこと好きでいてもいい?」


 楓の腕が伸びてきて、直桜の肩をふわりと抱いた。


「そんなん、楓が報われねぇだろ。ちゃんと楓を大事にしてくれる人、探せよ。友達には、幸せになってほしいしさ」

「狡いなぁ、直桜のその言葉」


 楓の唇が直桜の耳を甘く噛む。

 ビクリ、と肩が跳ねた。


「けど、もうしばらくは、失恋の余韻に浸らせてもらおうかな。俺はしつこいから、そう簡単に引き下がったりしないよ」


 ニコリと笑んだ楓の顔は、どこか挑戦的に見えた。

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