第1章
第1話
東谷あいり改め、ヘンリエッタ・ガーネットは、自室に運ばれてきたケーキと紅茶を見つめ、呆然と椅子に沈んでいた。
テーブル上には大好物のチョコレートケーキが、白い磁器の皿に乗せられており、ティーカップには香ばしい紅茶が注がれている。
カップをそっと持ち上げて喉を潤すと、その甘さと温もりに改めて驚き、呆気にとられてしまう。
緊張で胃が痛くなりながら朝食を済ませ、食後のデザートを自室でいただくと申し出たのは、数十分前のことだった。
朝食の席で把握した状況を整理すれば、どうやら『東谷あいり』は病室で息絶えたあと、西山はるが執筆する小説【男爵令嬢シリーズ】の主人公、ヘンリエッタに転生していた、という信じ難い事実であった。
何度も読み返した小説だ。確かに自分も小説の中に入って、こんなことをしたい、あんな風に過ごしたい、と空想して元気をもらっていたことは事実だった。しかし自分がヘンリエッタになっているという、不可思議な状況はどう考えても理解が追いつかなかった。
しかもどういうわけか、朝食の席で両親と話をしているうちに、ヘンリエッタの現状が脳裏に浮かんできたのだ。おかげで会話もスムーズになり、所作も自然にこなせたのだが、すっかり頭が疲れてしまった。
(……たぶんわたし、死んじゃったんだよね……、西山先生の最終巻……読みたかったな……。でも今、わたしがヘンリエッタなんだけど……)
ヘンリエッタはため息をつき、フォークを手に取ってケーキに切り込む。
口に入れた甘さは優しく、ひとまず頭に渦巻いていた混乱が静まった。ケーキを一切れ全部食べきれるなんて、いつ以来だろうか。自分が病室で最期を迎えたことは悲しいけれど、夢だとしても大好きなチョコケーキを、こうしてもう一度食べられるのは幸せなことだった。
ケーキを平らげ、紅茶も飲み干したら、足首まであるスカートの裾を持ち上げながら、椅子から立ち上がる。
整理された記憶をたどって振り返れば、紙が散らばる机が目に入った。勇気を出して側に近づくと、男爵家が営む演劇事業の舞台脚本があった。
(今はたぶん、原作1巻目の状態……かな?)
ヘンリエッタの生家、ジュリエ男爵ガーネット家。
エーデル王国の城下に屋敷を構える一家は、元々貴族ではない。彼らは富裕層向けに演劇を上演する、中堅規模の演劇商会であった。しかし演劇団の評判が王家まで届き、貴族相手でも演劇も行うよう王命を受けたのだ。その際、貴族に対して融通が効くよう、王家からガーネット性と男爵位を賜った異色の経緯を持つ。
そしてヘンリエッタは男爵家の一人娘であり、演劇団に脚本を提供する、駆け出しの劇作家だった。
西山はるが執筆する【男爵令嬢シリーズ】は、主人公ヘンリエッタが様々な体験をし、考え、悩み、大切な人と想いを分け合って、劇作家として、人間として、成長していく物語だ。
そんな主人公は今、初めて貴族向けに上映する、恋愛を主軸とした演目を試行錯誤している途中、のようである。
ヘンリエッタは机の前に立ち、新しい便箋に書き殴った、脚本のプロットを眺める。
おそらく手元に、書ける紙がなかったのだろう。頭の中に浮かんだ映像を、急いで書き留めた文字の羅列に、思わず苦笑いしてしまう。
(分かる分かる。わたしもよく、こうやってところ構わず、書いちゃってたっけ)
自分が置かれた状況はよく分からないが、ひとまず楽しい夢だと思うことにしたヘンリエッタは、椅子を引いて腰を下ろした。ここは自分が好意を寄せる相手が書く、物語の中である。同じ物書きとして、ストーリーが破綻しないよう努めるのが、敬意というものだろう。
便箋に書かれたプロットを読み込み、昨晩まで使っていたはずのペンを探す。
参考資料の山の下から、愛用している付けペンを見つけ出し、半分固まったインク壺をこじ開けて、ペン軸にインクを染み込ませた。
演劇の脚本は書いたことがないが、ヘンリエッタ自身がこれまで書き残したものを参考に、新しい展開を考えていく。
(セリフの書き方は、こうでいいのかな? このキャラクターは、きっとこう言った方が……、これって舞台袖まで、どうやって移動してもらえば、あ! これが舞台の設計図ね!)
晩年の東谷あいりと違い、ヘンリエッタは健康そのものだった。
作業に没頭していても苦しくならず、変な咳をして吐いたりすることもなく、突然高熱を出して倒れたりすることもない。
(すごい! 当たり前だけど健康って素晴らしい!)
すっかり楽しくなってしまった彼女は、時間も忘れて夢中でペンを走らせていく。
便箋の余白まで使い、売り物に出せない粗悪な紙をメモ用紙代わりに、ヘンリエッタは脚本に様々な情報を加えていった。
夕食の時間も忘れて没入してしまい、
◇ ◇ ◇
やる気に溢れたヘンリエッタを焦って制止した父母に、強引に寝室に連れて行かれ眠りについた後。
早朝から興奮が収まらない彼女は、意気込んでパジャマからワンピースに着替えて、軽快な足音で机の前に立つ。
昨日の続きをしようと資料の山から、衣装の草案が書かれた紙を手に取ったところで、違和感に気づいて動きを止めた。
(……え?)
インクが擦れて黒ずんだ便箋の一番上がめくれ、続く二枚目に何か文字が書いてある。
それはヘンリエッタの字でも、東谷あいりの字でもない。少し崩してあっても流麗な、優しく穏やかな筆跡であった。
昨晩、僕にメールを下さった方だと信じ、返信しております。僕は、西山はると申します。
もしかして、東谷あいり先生でしょうか?
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