手紙と恋したヘンリエッタ
向野こはる
プロローグ
プロローグ
お体の調子はいかがでしょうか?
……そうでした、【男爵令嬢シリーズ】は、次巻でついに完結です。執筆も順調に進められており、予定通りに刊行できそうです。…………先生からいただく感想や、温かい応援が力になりました。僕がここまで執筆活動を続けられたのも、ひとえに東谷先生のおかげです。
……どうか、ヘンリエッタの幸せな結末を、見届けてくださると嬉しいです。
父に頼んでベッド脇に移動してもらった、仕事机に座るわたしは、手紙を読んで目を細めた。柔らかな花が右下に描かれた、和紙を模す便箋には、少し崩した流麗な文字が並んでいる。何度もやり取りしてすっかり見慣れた文字でも、指でなぞると少し心臓が高鳴って、頬が紅潮してしまう。
差出人は、
小さな段ボールの中には、西山先生が書いている【男爵令嬢シリーズ】の最新刊が同封されており、開封してから夢中で読みふけった。
(今回の話もすごい面白かった! 早く西山先生にファンレター書かなくちゃ)
幸せな心地で便箋を選んでいたわたしは、自室の扉が叩かれた音に気がつき、顔を上げる。
慎重さを感じさせる動きで扉が開けば、顔を出したのは母だった。
「あら、あいり。今日は起きていて大丈夫なの?」
「うん。病院の薬が効いたのかな、今日は眩暈しないみたい」
「そう……よかった」
母はほっとした様子で、扉を最後まで開け切る。ケーキの甘くて良い香りが鼻腔をくすぐった。
わたしの好きなチョコレートケーキを皿に乗せていた母は、仕事机に置いている箱を目に止め、微笑ましげに目尻を下げる。
「西山先生から?」
「うん」
「貴女ってば本当に、その本が好きねぇ」
「面白いんだよ、お父さんだって言ってたでしょ! 主人公のヘンリエッタは頑張り屋だし、ウィリアス王子は一途でね」
「はいはい」
わたしの熱弁に、母は苦笑するばかり。母は小説を読まない人なので、軽く流されてしまった。やはりこの話題は父とするに限る。
無理をしないようにと念を押され、母はケーキと飲み物を置いて行ってくれた。
わたしはフォークを持って少しずつケーキを食べ始め、何度も手紙を読み返し、甘いチョコレートを半分ほど残して、フォークを置く。最近、食欲が落ちているなぁと思っていたが、これ以上は胃に負担がかかるようだ。
胃腸が動いたせいか、少し気持ちが悪くて胸が苦しい。ぽた、と水滴が手紙の上に落ちた。
(……最終巻かぁ……読みたかったな……)
わたしの仕事机の上には、執筆途中の原稿が保存されたパソコンと、たくさんの資料と、数えきれないほどの薬がある。
元々あった持病が悪化してしまい、体の中で合併症も起こしている。余命はあとわずからしい。今日は幸運にも調子がいいが、そう遠くない未来に、わたしはこの世から消えてしまうのだろう、という予感があった。
闘病生活に耐えながら必死に書いた原稿は、もうすぐ編集部に渡せるだろう。でも西山先生の新刊には、心臓が持ちそうにない。
西山先生の書く【男爵令嬢シリーズ】には、治療や手術で衰えた気力と体力を支えてくれた。わたしが執筆活動を続けられたのも、それこそ西山先生の、──ひそかにわたしが想いを寄せたあなたの、優しい物語のおかげだ。
こんなお話が書きたかったし、西山先生の世界にずっと浸っていたかった。少し不思議で温かい、彼の書く小説の中にいるように、わたしも生きてみたかった。
わたしはお気に入りの便箋を手に取ると、インク壺の蓋を開ける。父が誕生日に買ってくれたガラスペンの先を、そっと浸してインクを吸わせ、便箋の表面に押し当てた。
拝啓 親愛なる西山先生
……王子様は相変わらず、彼女のことが大好きですね。……ヘンリエッタはどのような結末を、迎えるのでしょうか。
……いつも本当に楽しく読ませて頂きました。もし叶うなら、物語の結末を教えてもらいたいほどです。
西山先生のご活躍を、これからも一番の読者として、応援しております。
敬具 東谷あいり
◇ ◇ ◇
鳥たちの美しいさえずりが、高らかに朝の訪れを告げている。
長く寒く苦しい夜が明け、清々しい心地で意識が浮上し、ゆっくりと目蓋を開けた。
まるで羽毛のように体がとても軽く、柔らかいベッドから起き上がって、ふと、見慣れない枕に目を瞬かせる。
(……? あれ、病室……にしては、広い……?)
自分の片手に視線を向ければ、点滴の痕がない。つややかで若々しく綺麗な皮膚だ。手術の為に髪を切ったはずなのに、視界の端より見えるそれは、ほつれのない長髪である。しかも何故か黒髪から栗毛に変化していた。
(な、何、どうなってるの?)
パニックになって周囲を見れば、部屋も見たことがない……いや、微妙に見た覚えがあるような部屋だ。しかしそれも立体的ではなく、もっと平面的であったように思う。
ベッドから降りた素足も綺麗で、やはりどことなく若々しい。目線の高さにも違和感があり、清潔なワンピースタイプのパジャマに戸惑う。
姿見がないか視線を巡らせていると、扉が叩かれて、のんびりとした穏やかな声が聞こえた。
「お寝坊のお嬢さま! おはようございます、ソフィアでございます」
「え?」
聞こえてきた女性名に驚き、思わず声を上げてしまう。その聞き覚えがない声にも驚愕し、両手で口を押さえた。
動揺しながら忙しなく視線を動かしていれば、部屋の扉が開き、クラシカルなエプロンドレスを纏う、ふくよかな体型の女性が顔を出す。
ソフィアと名乗っていた彼女は、こちらを見てにっこりと笑みを浮かべた。
「まぁ
あまりに見覚えがあるその容姿に、まるで生きているような声と体温を感じる立体感に、呆気に取られたまま着替えを促される。
部屋のクローゼットに並べられた、着たこともないワンピースの数々。派手さはなく機能的だが、可愛らしい少女の佇まいを連想させる。
不安と好奇心で疑問符を撒き散らかしていれば、ソフィアが引っ張ってきた姿見の前に立ち、ようやく違和感の正体を知ることになった。
(…………え、嘘、……なんで?)
華奢ながらも健康的な肌、栗色の長髪に真紅の美しい瞳。
鏡に映る自分は間違いなく、ヘンリエッタ・ガーネットという、──東谷あいりが死ぬ間際まで病室に持ち込んで、夢中で読み返した【男爵令嬢シリーズ】の主人公、その人であった。
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