保健室の優等生と劣等生
天海エイヒレ
前
雨の日は好きだった。傘を差せば、誰も私だとわからないから。
梅雨の激しい雨が頭上の黒い傘に降り注ぎ、騒がしい音を立てる。通学路には霧がかかり、視界に映るのは一面の白だけだ。近くには登校している生徒がいるはずなのに、誰の声も聞こえないし、誰の姿も見えない。まるで世界に誰もいないかのような感覚。それが私にとっては居心地が良かった。
校舎に入ると、一人きりの世界から灰色の現実に戻ってしまう。心地良かった雨の音は、キャッキャとはしゃぐ女生徒の甲高い声に遮られる。彼女たちから身を隠し、私は傘についた滴を払った。クラスごとに下駄箱の場所を決められているが、私は端にある誰にも割り当てられていない箇所を使う。間違っても同じクラスの人とは、はち合わせたくない。
近隣の学校の中でも、私の中学は立派な校舎だそうだ。創立十年という真新しい四階建ての校舎には、最新の設備が充実していると聞く。けれど、そんなことは私に関係ない。私が使う部屋は、一階の一室だけだ。
いつものように、私は保健室の扉を開けた。
真っ先に目に飛び込んできたのは、傘立てだ。私の学校では昇降口ではなく、各教室に傘立てが置かれている。そこに立て掛けられた、赤色の傘。
灰色だった世界は、赤色の傘を中心に色づいていく。脳ではなく、体が先に反応した。胸の奥が熱くなり、頬が緩んでいく。
あの子が来ている。それだけで、私を構成する細胞の全てが歓喜の声を上げていた。
「
ベッドを区切るカーテンを開け、私は声をかける。ベッドに座って本を読んでいた女の子が視線を上げた。とろんと潤んだ瞳が、ぼんやりとした彼女の気質を良く表している。滑らかな長い黒髪は、綺麗に切り揃えられていた。
「おはよう、ございます。……
線の細さに合った弱々しい声が、私の名前を呼んだ。彼女は私の方を向いているが、視線が合うことはない。人と目を合わせることが苦手らしい。
「今日は何を読んでたの?」
「『明日みんなに教えたくなるフクロウの生態』です」
「へえ。笹部さん、フクロウ好きだったんだ」
「好き、というよりは興味深いです。フクロウって、どうしてあんなに首を回すのか知ってますか? 眼球が頭蓋骨に固定されているから、目ではなくて首を動かすことでいろんなところを見てるんです。それから――」
「めっちゃ教えたくなってんじゃん」
図星を突かれた気恥ずかしさか、笹部さんは口元を本で隠した。普段は必要以上に話さないくせに、雑学を語るときには饒舌になるのも愛らしい。
カーテンを閉めると、保健室のスピーカーからチャイムが鳴った。ホームルーム開始を告げる音だ。けれど、私たちが教室には行くことはない。中学二年の私と、中学一年の笹部さん。学年は違えど、この保健室こそが私たちの教室だった。
「それじゃあ、勉強始めよっか」
ベッドの横に置かれたパイプ椅子に座り、机の上に教科書を広げる。机と椅子は、私が養護教諭にお願いして用意してもらったものだ。保健室には他にもスペースはあるが、誰かが来ても憐れみの目を向けられないよう、ベッドを仕切るカーテンの内側に置いてもらった。僅かな隙間に置かれた折りたたみ式のアルミ机は、二人分の教科書を乗せれば、それだけでいっぱいになってしまう。椅子を横に並べて座っているので、ペンを動かすと肘と肘がぶつかり合う。普通なら鬱陶しいところだが、彼女となら自然と笑みがこぼれた。
「まずは数学の復習ね。昨日やった方程式の問題、もっかいやってみようか」
「はい、頑張ります」
鉛筆をギュッと握り、笹部さんは問題を解き始めた。教科書に書かれた一次方程式の問題は、去年の今頃に私も解いた問題だ。
教室で授業を受けない代わりに、教師から与えられた課題を進めるのが私たちの日課である。課題に苦戦する笹部さんのために、一つ年上の私が彼女の勉強を見てあげていた。保健室では、私は彼女の先生なのだ。
彼女がどうして保健室登校になったのか、私はよく知らない。なんとなく予想はついているが、きっと触れられたくないことだろう。笹部さんも同じ気持ちなのか、あまり私について聞くことはなかった。
ホームルームが終わったのか、保健室のドアの向こうからガヤガヤと騒がしい声が聞こえる。シャーペンを持つ手に力が入り、芯がポキッと折れた。
「鎌田さん。この問題、これで合ってますか?」
「すごい! 全問正解だよ」
遠慮がちにノートを見せてきた笹部さんの頭を優しく撫でてやると、彼女はふにゃりと笑う。
本で雑学を知ることが好きなのに、はっきり言って笹部さんの物覚えは悪い。先ほどのフクロウの知識だって、明日私が同じ話をしたら、「知りませんでした」と初見のように目を輝かせるかもしれない。それでも、笹部さんは課題をこなし続けている。人より歩みは遅くとも、懸命に頑張る姿が私は好きだった。
今日の笹部さんは特に調子が良さそうだ。これなら、もう少し挑戦してもいいかもしれない。
「それじゃあ、応用をやってみようか。ここ、解ける?」
「えーっと、山田青果店ではリンゴ1個を100円で150個仕入れ、3個1セット、定価500円で販売した。しかし、途中から、定価2割引で、販売、し……」
笹部さんの目が泳ぐ。みるみると彼女の顔が青白くなっていった。
まずい、と瞬間で理解する。私はベッドの脇に置かれたバケツを引き寄せ、笹部さんに手渡した。笹部さんのために用意されているそのバケツには、黒いビニール袋が被せられている。
獣が唸るような声と共に、笹部さんは胃の中のものをバケツへ吐き出した。彼女の小さな口元から、液体とも固形とも見える塊が落ちていく。背中をさすると、彼女は苦しそうに咳をした。
「ごめんなさい、鎌田さん。数字が多いと、頭がグルグルして」
「いいのいいの。意味不明な売り方をした山田青果店が悪い。潰れてしまえ」
緊張による過度な嘔吐。それが笹部さんを苦しめる枷だ。
心身にストレスがかかると、彼女はすぐに気分が悪くなり、吐いてしまう。クラスメイトの前で発言することはもちろん、勉強で難しい問題に直面したときすら、脳の容量が限界を超えてしまうのだ。どうせ戻してしまうからと、朝と昼は食事を取らないらしい。
水道で口を濯いでベッドに戻ると、笹部さんは元の呼吸を取り戻した。嘔吐物は袋を縛り、保健室の隅に置く。後で養護教諭が来たときに、処分してもらおう。
「どう? 落ち着いた?」
「はい。ご迷惑をおかけしました。勉強、再開しましょう」
意外な言葉に、私は眉をひそめた。笹部さんに根性があることは知っているが、嘔吐した直後に勉強を続けようとするのは初めてだった。吐くのにだって体力はいる。気分だって、すぐれないはずだ。
「今はもう少し休まない? そうだ、昨日面白いアプリを見つけたんだ」
スマートフォンを差し出した私に、笹部さんは首を左右に振った。
「私、夢ができたんです」
私を見て、笹部さんははっきりと告げる。久しぶりに視線が交わった彼女の目には、私の姿が映っている。けれど、私を見ていない。彼女が見ているのは、希望とか未来とか光とか、そういうもの。私の知らないものを見ていた。
「看護師になりたいんです。迷惑ばかりかけている私だからこそ、誰かを助ける仕事をしたい。ゆくゆくは看護学校に入れるように、今はたくさん勉強したいんです」
夢を語る笹部さんの瞳がキラキラと色づいている。その姿が眩しくて、私は目を逸らした。
「……無理だよ」
「え?」
不安な声を上げる笹部さんの表情を、私は見ることができなかった。肺の中にモヤが溜まり、上手く呼吸ができない。頭の片隅にいる冷静な自分が、ダメだと諌めている。けれど思考と裏腹に、口は止まってくれなかった。
「笹部さんには、無理だよ。人の命を預かることが、どれだけ大変なことか分かってる? 失敗なんてできない世界で、たくさんの人に気を配って、常に精神と体力を削り続けている。資格を取るのだって、簡単じゃない。少なくとも、中一の数学につまずいている笹部さんにはできっこない。そもそも学校生活すら上手くできていない笹部さんが、まともな人生なんて――」
言葉を切ったのは、笹部さんを見てしまったからだ。
笹部さんは笑っていた。自分のことを棚に上げ、私は明らかに彼女を傷つける言葉を使った。なのに笹部さんは、私に微笑みを向けている。
脳内に嫌な記憶が蘇る。あの時のあいつも、こんな表情をしていた。
「ごめん、今日はもう帰る!」
一方的に告げて、私は逃げるように保健室を飛び出した。後ろから笹部さんが私を呼ぶ声がしたけれど、すべて聞こえないふりをして流す。
私はまた、余計なことを言ってしまった。言葉というのはどれほどの災いを招くのか、知っていたというのに。
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