あるお嬢様と執事の話。

天千鳥ふう

あるお嬢様と執事の話。

濃紺の闇の中に、鮮やかなレモン色にきらめく月が浮かんでいる。


そのおだやかな光に照らされていた町の建物のあかりも、


さっきから少しずつ、消えつつあった。


ふいに、ぬるく潮の香りを含んだそよ風が吹き、


ベランダにたたずむお嬢様の肩上までの黒髪を揺らす。


「お嬢様、もう日を越える頃でございますが」


風のざわめきが去ったのちに、お嬢様の斜め後ろで指先一つ動かさず立っていた黒服の執事が声をかける。


「だいじょうぶ。まだもう少しここに居たいの」

「さようでございますか」


執事のほうも向かず、お嬢様は手にしていたワイングラスを口元で傾ける。


その中の芳香ほうこうを放つ赤い液体が彼女の唇をらしたとき、遠く離れ、闇にまぎれた灯台この町エッフェル塔フランスに見えたのは、きっとお嬢様だけである。



街の灯りが消えてゆく。



「お嬢様」


見上げるほどの長身に目元まで伸びた髪、細い金縁の片眼鏡を掛け漆黒の燕尾服えんびふくの腕にお嬢様の白いカーディガンをかけた執事は、そばの小さな丸椅子の上に置いたワインボトルを手にしてお嬢様に歩み寄る。


そして彼はおもむろにそのせんを抜き、お嬢様の空になったグラスに何杯目かのお代わりをぎ足し、彼女の耳元で一言、ささやいた。



その後、そのささやきは、



お嬢様の高級ドレスワンピース一着、


お嬢様の薄青のハイヒールひとセット、


お嬢様の細渕の丸眼鏡ひとつ、


フランス・ボルドー産の高級ワイン数ミリリットル、


職人特注の特別ワイングラスひとつ、


お嬢様の足首の健全、


そしてお嬢様の魂という、


数多たくさんのものを奪っていった。





――










その後執事は、口角一つ動かさず、衣服が所々赤く染まったお嬢様をベッドへと運び、明かりを消し、自らの部屋へ戻り、眠りについた。






——執事がその夜、



『あー、もうちょっと早くワインボトル置いて完全に倒れる前に助けてあげればよかったかな』


とか、


『あー、シミになるから赤ワインじゃなくてせめて白ワインにしとけばよかったかな』


とか思っていたかどうかは、誰にも知り得ないことである。



☞ The End.

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