第10話

 志崎くんの言葉を肯定するように風が吹いた。

 ひと足先に枯れた葉が、ひらりとぼくたちの前に落ちる。志崎くんは枯れた葉を目で追いながら、淡々と話を続けた。相変わらず、ぼくに話しているようには思えない口ぶりで、でもぼくは、志崎くんの横顔をじっと見つめながら聞いていた。


「先生にも引っ越すの内緒なんだ。だから満島以外のクラスメイトもみんな知らない。金曜日に学校に行って、家に帰って、そうしたらもう、その夜には別の家に引っ越すんだ」

「先生、きっと心配するよ」


 クラスメイトも、と付け足す。

 志崎くんはようやくぼくを見て、笑った。声も出さないで、目が細まって、口の端だけはやんわりと持ち上がる、静かな静かな笑い方だ。だけどぼくは、それは本当の笑みじゃないのではないかと思った。なにかを我慢しているような風に見えた。


 お母さんがお腹をおさえながら「大丈夫よ」とぼくの頭を撫でた日のことを思い出す。ぼくはもやもやとしたものを抱えながらも、大丈夫だと言うのなら大丈夫だと思うことにしたのだ。


 そのときのお母さんと今の志崎くんはとても近い場所にいるような気がした。


 ぼくはどうしたらいいの分からないけれど、どうにかしないといけない気がして志崎くんのほうへ手を伸ばす。

 差し出した手を見た志崎くんは「なにこれ」と、今度は、たぶん本当に、笑った。

 そしてぼくの指を握る。


「仕方ないよ、みんなに話すと怒られてしまうから」


 志崎くんの家にいた、乱暴な女性を思い出した。きっと怒るとあのプリントを持っていた日の何倍も恐ろしいのだろう。


 同時に、ぼくは高揚感を覚えていた。

 まただ。また、ぼくの情けないところが顔を出し始める。

 ぼくだけが知っている志崎くんの秘密。誰とでも笑いあえる志崎くんが、ぼくだけに教えてくれた寂しいお話。それはぼくが、志崎くんの中で何か特別なものに成り上がれているように思えた。


 どうして、とは聞けなかった。

 

 代わりに、ブランコから立ち上がり志崎くんの前に立つ。志崎くんはぼくを不思議そうな顔で見つめていた。

 ぼくを特別にしてくれた志崎くんになにかしてあげたい。冷たい頬を両手で包むと、志崎くんの瞳が大きく開いた。


「金曜日の放課後、志崎くんと一緒に帰りたいんだ」


 ブランコが揺れて膝と膝がぶつかり合う。

 志崎くんが少しだけ脚を広げた。


「夜に引越しするんだよね。夕方まで遊ぼうよ、連れて行きたいところがあるんだ」

「満島がそんなこと言うなんて思わなかった。いいよ、連れて行って」


 満島のお母さんに怒られたりはしないか、と聞かれ、ぼくは「大丈夫」と答えた。きっとさっきの志崎くんや、あのときのお母さんは、こんな心地で笑ったのだろう。


 ぼくがブランコに戻ると、ぎぃ、と鉄の擦れる音が鳴った。

 ぼくたちは夕方のチャイムが鳴るまで、誰も来ない三角公園で静かに冷たい風を感じていた。

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