第22話 プロポーズ

「花音の恋愛歴について聞いていい?」


 宮の森の家で秀真が淹れた美味しいコーヒーを飲んでいた時、彼がそんな事を尋ねてきた。


 花音はとっさに、口の中にあったカフェオレを噴いてしまうところだった。


「ど……っ、どうして、いきなり……っ」


「いや、だって……。気になるだろ?」


 彼は照れくさそうに笑い、それでも花音への興味を隠さない。


「……そんな……。本当にお付き合いって言えるものはほぼ経験していないんです。告白された事はあっても子供でしたし、知らない人からだと怖かったです。あとは音楽、音楽で……」


「……確かに、大事な時期だったもんな」


 そう言うものの、秀真はどこか嬉しそうな顔をしているので、花音は内心むくれる。


「社会人になってから一人だけ付き合った事があります。合コンで出会いました。優しくて話しやすい人でしたが、……決定的に『合わない』って思った事があって」


「……というと?」


 秀真に尋ねられ、花音は息をついた。


「私が音楽を避けていたからか、彼は私の事をクラシック嫌いと思ったみたいです。それで目の前で延々とクラシックを馬鹿にされて……。私がショパンコンクールに出た事のある元音大生だって言っていなかったのはこちらに非があります。避けていたのも事実ですが、あそこまで悪く言われると腹が立ってしまって……」


 愚痴っぽく言ったあと、花音は長い溜め息をつく。


「っはは……! 花音らしいな」


 ひとしきり笑ったあと、秀真は花音の手を握ってくる。


「何はともあれ、花音みたいに素敵な女性がフリーで良かった」


「……え、と」


 大きく温かな手に包まれて、鼓動がどんどん速まっていく。


「……キスをしていいかな?」


 尋ねられ、花音は言葉では何も言えず、真っ赤になったまま一つ頷いた。


 秀真は花音の頬を撫で、愛しそうな目で見つめてくる。


 長い指で頬や唇の輪郭を辿ったあと、顔を傾けて優しいキスをしてきた。


 何度か唇をついばまれ、下唇を軽く噛まれるなどして意識がとろけてしまった頃、花音は秀真の胸板に額をつけて「……ギブ」と限界を訴えた。


 そのあと、秀真は花音を抱き締めたままソファに寝転がっていた。


 仰向けになった彼に身を預ける形なので、最初は「重いから」と遠慮していたものの、秀真に「いいからおいで」と言われて押し負けてしまった。


「……秀真さんの元カノ関係、聞いてもいいですか?」


 やがて花音がぽつっと呟き、尋ねる。


「ん……。そうだな、俺も大した付き合いはしていないけど」


 胸板から反響する声が心地よく、花音は目を閉じる。


「こう言うと自惚れているように聞こえるかもしれないけど、割とモテていたんだ」


「いえ、客観的に見て秀真さんは凄くモテる人だと思います」


 花音の返事に秀真は笑った気配だけ見せ、ポンポンと頭を撫でてくる。


「モテるって言うと『いいな』って思われがちなんだけど、それほどいいものでもない」


 秀真の声は、遠い昔を思い出しているようだった。


「学生時代は、いわゆる『秀真くんの取り合い』みたいなものがあって、うんざりしていた。おまけに同性からは嫌われるし、踏んだり蹴ったりだった。俺はあまり男子グループに属さず、朝は早く登校して音楽室のピアノを弾かせてもらっていた。昼休みは図書室にいたかな」


 花音も学生時代、目立ってモテる女子を見ては少なからず「いいな」と思っていたが、裏でそういう苦労があったとは思わなかった。


「大学生になってからは少しそういうものから抜け出せたけど、今度は『どうやらあの瀬ノ尾秀真というのは、いい所のボンボンらしい』という情報が流れていたみたいで、玉の輿を狙う女性に付け狙われた。合コンしたいと何度も声を掛けられて、誘い自体は嬉しかったけど、目的が分かっていたから避けていた。だから皆が想像するような、入れ食い状態でモテていた訳じゃないんだ」


 花音は抱き締められたまま、小さく頷く。


 多少なりともその〝入れ食い〟を想像していたので、彼の苦労も知らず勝手な想像をして申し訳なく思った。


「大学生の時は、同じ学科で最初は友人だった人と付き合った。物静かな人で一緒にいて心地よかったけど、やっぱり大学生だったからかな。彼女はもっと刺激を欲していたようで、他の男から誘いがあって二股されていた。それで俺から別れを告げたよ」


 何とも言えなくなって、花音は黙る。


「当時は悲しくて憎たらしかったけど、あとから思えば『分かるな』とも思ったんだ。大学生って、高校生までの抑圧された生活から解放されて、いわゆる大学デビューとかもする時期だろう? バイトをして自分の金もできたり、制限なく自由を謳歌できる時期だ。俺は色々あって『合コンとかそういうものはいいや』って思って、隠居生活を望んでいた。でも、彼女は違った。ただそれだけなんだ」


「……秀真さんは大人ですね」


「そんな事ないよ。付き合ったらつまらない事ですぐ嫉妬するし、普通の男だ」


 秀真は軽く笑い、花音の額にキスをする。


「社会人になってからも、何人かとは付き合った。……でも会社の重役だから、最初から色眼鏡で見られている。『こいつと結婚できたら人生勝ち組』とか、そういうのが透けて見えてしまう。社内で見かけた時は別の顔をしていた女性社員が、俺の前でだけ猫なで声を出す。……そういうのには、もううんざりしてしまって」


「……大変なんですね」


 秀真は溜め息交じりに微笑む。


「自分から積極的に恋愛するのをやめてから、今度は縁談という形で女性を紹介されるようになってきた。写真や釣書を見る限り、どの人も立派なお嬢さんだ。会ってみて話をして、『いいな』と思った人も何人かいる。……でも結局、それはお見合いという場でだ。実際付き合って結婚したら、どんな素を見せてくるか分からない。そもそも、セッティングされないと女性と接する事のできない自分が情けない」


 花音はまた何も言えず、黙って秀真の胸板に頬をつけている。


「花音の事は、さっきも言ったように前から君の音を知っていた。それで『どんな子かな』と気にしていた。祖母に洋子さんと一緒に写った写真を見せてもらった時、素直に『可愛いな』って思ったよ」


 照れくさく、今度は違う意味で花音は言葉を返せない。


「そのうち『会ってみたいな』と思って、祖父母が札幌に行く時に同行するようになった。毎回じゃないけど、『会えたらいいな』という下心もあった」


「それで……こないだ?」


 病室で会った時の事を言うと、秀真が「そう」と笑う。


「一目惚れとか、運命とかはあまり信じないけど、一目見て『いいな』と思った」


「……私も、秀真さんを見て『格好いいな』って思っちゃった。……最初に外見ありきでごめんなさい」


 白状したが、秀真は怒らない。


「第一印象が大事っていうのはビジネスシーンでも同じだから、全部悪いとは思わないよ」


 ポンポンと頭を撫でられ、花音は安堵して息をつく。


「……私、でいいんですか?」


 話を聞くからに、想像以上に秀真がモテるという事は分かった。


 その相手が札幌でのほほんと過ごしていた自分でいいのか、という負い目がある。


「花音がいいんだよ」


「……はい」


 しばらく二人は抱き合っていたが、秀真が溜め息交じりに口を開く。


「包み隠さず話すと、花音と会う前に、正式な場ではなかったけど女性と会った。その人にやけに気に入られていたから、万が一はないと思うけれど、いずれきちんと話をつけないと、とは思っている」


「はい」


 その話を聞いても、「不可抗力だ」としか思えなかった。


 彼のような男性が、まったく手つかずのはずがない。


 自分と会う前に素敵な女性との縁があってもおかしくないと思っていたし、お見合いでなくても会社の重役ならパーティーなどで人と会う機会があったかもしれない。


 それは花音が口出しできない領域だ。


「俺は花音と結婚したいと思っている」


「えっ……」

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