第20話 二人で練習室Cのピアノに
旧道庁前にある飲食店ビルの寿司屋に入り、活気のある板前と会話を楽しみながら、三千円の寿司コースを味わった。
「美味しかったです。ごちそうさまでした」
「良かった。ここはホテルに近いから、以前に来た事があるんだ」
「そうなんですね」
いつも友達とお気に入りの店ばかり行っているので、こうして新しい店を知る事ができるのは嬉しい。
とはいえ、値段が高めなので、たまにのご褒美ぐらいにしか行けないが。
「このあとは祖母の家に行く……で、いいですね?」
「ああ。もう洋子さんの体調は大丈夫なんだろう?」
「はい、普通に座って話す程度なら問題ありませんよ」
「良かった。実は今日、洋子さんにお会いするって言ったら、祖父母が羨ましがってたんだ」
「あはは! さすが祖母の大ファンを自称するだけありますね」
「手土産も沢山持たされたし、祖父母の分もご挨拶するよ」
「ふふ」
会計は秀真が持ってくれ、礼を言ってからタクシーに乗り、西区にある洋子の家に向かった。
チャイムを鳴らすと、安野が出迎え「どうぞお上がりください」と二人を迎え入れてくれた。
「秀真くん、いらっしゃい」
手術の直後は消耗して少し痩せた洋子だが、今は食べる物を食べ、ウォーキングもして元気を取り戻している。
「お元気そうで良かったです」
玄関から二階にある広いリビングダイニングに通され、ソファに落ち着いてからお互い挨拶をする。
安野は「お茶を出しますね」とキッチンに向かった。
「こちら、どうぞ。私と、祖父母からもです」
冗談交じりで秀真が手土産を差し出すと、洋子が「まぁ、沢山ね」と笑い返した。
実際、秀真は大きな紙袋を二つ持っていて、その中に菓子折の箱が幾つも入っていた。
「ご丁寧にありがとう」
そのあとは洋子の体調の話になり、秀真が康夫や春枝の近況なども話した。
安野が紅茶と手作りの菓子を出してくれ、それを頂く。
「ところで花音は秀真くんと、いいお付き合いを続けているのね?」
「おっ、お祖母ちゃん……!」
急に秀真との仲について言及され、花音は紅茶に噎せかける。
「んふふふ。私も春枝さんたちも、喜んでるのよ。まさか二人がくっつくなんて最初は思いもしなかったけど、それぞれ孫に相手がいないのを心配していたのは事実だから」
「う……。ご心配お掛けしました」
今までろくに彼氏がいなかったと言われては、言い返す言葉もない。
「こういうの、巡り合わせって言うのかしらね」
歌うように言った洋子は、七十代後半になってもなお美しさの陰っていない顔で微笑む。
人前に出る事を常に意識している洋子は、いまも女優のような美しさと品がある。
我が祖母ながら、常に人の視線を気にし続け、自分の外見を整える努力を続ける姿は凄いと花音は思っていた。
「確かに、洋子さんや祖父母のお陰ではありますね」
秀真は照れた様子もなく言い、洋子と微笑み合っている。
(もう……。秀真さんは恥ずかしくないのかな)
花音は家族の前で彼氏と一緒にいるのに慣れていないので、まるで学生のように恥じらっていた。
「それはそうと、練習室が見たいんですって?」
洋子に言われ、花音は当初の目的を思い出す。
「はい。ぜひピアノ教室の様子を見たいと思いました」
この日は土曜日で、ピアノ教室も開いている。
奥からは生徒たちが奏でるピアノの音が、微かに聞こえていた。
母の奏恵は変わらず生徒たちを見ているが、洋子は調子を見ながらピアノを教えているようだ。丁度この日は午前中のレッスンを終えたあとに休憩を取り、その間に秀真と花音を迎え、十五時半の練習からまた生徒を受け持つようだ。
「何の変哲もない普通のピアノだけれどね」
三人で階段を下りて一階に向かう。
「好きに見ていて頂戴。私はそろそろ次の生徒さんを迎える準備をしなければいけないから」
「ありがとうございます。生徒さんが来る前には出て行きますので」
秀真の言葉に、洋子はにっこり笑った。
「あら、いいのよ。好きなだけいてちょうだい」
そのあと洋子は二人に「じゃあね」と告げたあと、ゆっくりと去っていった。
廊下にはガラスから中が覗けるドアが三つ並んでいて、そのうちの一つは生徒が使っているようだ。
「梨理さんの黒いアップライトは?」
「練習室Cは一番左の部屋です」
秀真はドアノブに手を掛け、静かに開いた。
中はこぢんまりとしていて、アップライトピアノの他は休憩するための小さなソファと、テーブルがある。
「懐かしいな。友達はよくこのテーブルで宿題をしていました」
「確かに、俺も小学生時代には宿題に追われていた気がするな」
思わず二人で笑い、それから黒いアップライトピアノの前に立つ。
(これを弾いて……私、時空を越えたんだ)
ピアノの前に立つと、少し緊張してくる。
今は時を超える必要がないので、もし触れただけでおかしな事があったらどうしようという恐れがある。
加えて単純に、前回は『別れの曲』を弾けたけれど、今もまだピアノの前にいると胸が騒いでしまう。
「どう見ても普通のピアノだな」
秀真は花音の不安をよそに、ピアノの蓋を開けると椅子に腰掛けた。
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