第18話 秀真の事

「うちの祖父母が洋子さんの大ファンだっていう事は、言っただろう?」


「はい」


「札幌のお宅にも、何度か訪れていた」


「はい」


「花音は身内だから、休日でも洋子さんの家に来てレッスンができていた。きっとその時は、自宅にあったピアノは奏恵さんが使っていたのだと思う。俺たちが洋子さんの家を訪れた時、素晴らしいピアノの音色が聞こえていた。それを、洋子さんが『自慢の孫よ』って言っていて、美しい音を出す人がいるんだなと思っていた」


 彼が自分のピアノをずっと前に聴いていたと知り、花音は何とも言えない表情になる。


 昔の自分のピアノなら、相当な技術での演奏を聴かせられていただろう。


(けれど今の私は……)


 情けなく、惨めになり、彼女はそっと息を吐く。


「話では、花音と空斗くん以外のお孫さんたちは距離感が違ったから、ピアノをするしないも一般家庭と大差ない環境だったとも聞いた」


「はい。私の従姉妹たちは、あまりピアノと関係ない生活をしていたと思います。一応家にピアノや電子ピアノもあったらしいのですが、やはり子供の頃に興味を示して終わり……みたいな感じだったようで。今は皆、それぞれ違う趣味を楽しんでいます」


 頭に浮かんだ従姉妹たちは、ヨガだったり、アウトドアやアイドルのおっかけなど、それぞれの趣味を持っている。


 そして彼、彼女たちに洋子は「ピアノをやってほしい」など、一度も言わなかった。


 恐らく、実家が徒歩十分の距離で、母の奏恵もピアニストである花音だからこそ、特別だったというのはあるのだろう。


「だから、俺はずっと花音を想っていた。君の音を想像していた。君が人生の転機を迎えていた時、会ってもいないのに『頑張れ』って念じていた」


「……ありがとうございます」


 不意に、見えない大きな手で優しく包まれている気がした。


 自分が意識していないだけで、花音は祖母にずっと心配され想われていた。


 それと一緒で、秀真のように花音の音を知っている人も、知らない場所から彼女を想っているのかもしれない。


(音大時代の友達、どうしてるかな)


 退学をしてからずっと連絡を絶っていた友達は、輝かしい場所でピアノを続けているのだろうか。


 当時は友達の活躍を知るだけでつらくなるので、絶対に話したくないと思っていた。けれど六年経って祖母とのわだかまりもなくなった今なら、世間話程度ならできる気がしていた。


 秀真は穏やかに笑う。


「洋子さんお孫さんだからって、会った事もないのに肩入れするのは変だって自分でも思っていた。それでも、今は間違いなかったって思うよ」


 秀真は指の背で花音の頬を撫で、近い距離で微笑んでくる。


 ドキッと胸を高鳴らせた花音は、急に自分が彼とこの家に二人きりなのだと思いだした。


「さっきの話だけど、洋子さんの孫の中で、花音が一番ピアノに向き合っていた。それに、君は挫折も知っている。そして事故に遭ったというところも同じ。……それらをひっくるめて、梨理さんに気に入られたんじゃないかって思うよ」


 けれどそう言われ、納得した気もする。


「……そう、ですね……。ピアノ教室でも梨理さんの気配を感じていました。そして他の子ほど私は彼女を怖いと思っていなかったんです」


「だろう? だから花音は特別なんだよ」


「そう……ですね……」


(私の願いを叶えるから、自分の望みを叶えてほしいっていう事なんだろうか……)


 因果関係がいまだハッキリせず、花音は何となくコーヒーカップに手を伸ばし、温くなったそれを飲み干す。


「ここからはごく私的な話題になるけど、花音に彼氏がいないって本当?」


「! っげほっ……っ」


 急にそんな話題になり、花音は咳き込む。


 しばらく涙目になってコーヒーに噎せる花音を、秀真が笑いながら「ごめん」と背中をさする。


「つい気になってしまって」


「『つい』って……。前に祖母が言った通り……誰もいませんけど」


「好きな人も?」


「はい」


 花音の返事を聞き、秀真の焦げ茶色の目が生き生きと輝く。


「じゃあ、俺と付き合おうか」


「へっ!?」


 突然の提案に、花音は素っ頓狂な声を上げた。


 そうなれたらいいな、とは心のどこかで思っていたが、彼と自分では住む世界が違いすぎるので、結ばれるなど思っていなかったからだ。


「俺の祖父母が言っていた、『独り身で寂しくしている』って本当なんだ」


「で、でも……。秀真さんって格好いいですし、性格も良くて女性が放っておかなそうな印象があります」


「ありがとう」


 花音の言葉を聞き、秀真は照れくさそうに笑う。


「今はいなくても、元カノさんとかいたんでしょう?」


 探るつもりはないが、秀真のような人が完全な意味で〝独り身で寂しく〟しているなど、信じられなかった。


「いたにはいたけど……。最後に付き合ったのは二十半ばくらいかな。そこからはずっと完全フリーだったよ」


 そう言う秀真は、嘘はついていなさそうだった。


「あの、付き合っていた女性が大勢いても、私は特に大丈夫ですからね?」


 思わず念を押したが、「あのねぇ」と苦笑いされた。


「俺も人の子だから、付き合っていた女性と別れる時は相応に傷つくんだ。一度酷い別れ方をすると『当分付き合いはいいかな』と思うし、男同士で飲んだりドライブしたり、BBQやキャンプ……。そういう方が楽だったりするんだ」


「あ……。確かに。私は恋愛経験はほぼないのですが、告白されるのも、断るのも気力が要りますよね」


 中学生までは共学で、何度か男子に告白された事があった。


 高校生は女子校だったので縁はなかったが、登下校の交通機関で男性に告白された事があり、それは気持ち悪く思っていた。


 大学でまた共学になったが、全員が音楽のライバルという感じで恋愛をする間もなかった。


 自分から人を好きになる事は滅多になかったが、相手が精一杯の気持ちと勇気を振り絞っているのに、断らなければいけないのはとてもつらかった。


「……他人が俺をどう見ているかは分かっているつもりだ。それでも、見た目ほど遊んでないのが事実だったりする」


「すみません。勝手な想像を働かせてしまいました」


 素直に謝ると、秀真は爽やかに笑って「いいよ」と許してくれる。


「初対面の人にもよく言われるから、慣れてる。『草食ぶって本当は遊んでるんだろ?』って。……多分俺は、周囲から求められるカリスマ性とか、ガツガツした部分があまりないのだと思う。昔付き合った女性には、『思っていたよりつまらない』って言われたな」


「こうやって話していたら、秀真さんが穏やかな人だって分かるのに、『つまらない』? 意味が分からないんですが……」


 目を丸くする花音に、秀真は苦笑いする。


「多分彼女たちは、もっと〝俺様〟的に自分をリードしてくれて、好きな物をプレゼントしてくれる……。そういう、〝理想のセレブ彼氏〟を想像していたんじゃないかな」


「えっ? 秀真さん、セレブなんですか?」


 うっすらとそういう気配は察していたが、本人の口から聞くまでは……と思っていたので、改めて尋ねる。


「うーん、実家の会社の役員をしている。だから色々期待されるんじゃないかな」


 内容はぼかされたが、ようやく秀真や康夫、春枝たちの正体が分かった気がした。


 洋子の実家も大企業らしいし、どこかで繋がりがあったのかもしれない。


「……凄い人だったんですね。何となく、雰囲気から普通の人とは違うなって思っていましたが」


 ポツンと呟くと、秀真が顔を覗き込んできた。


「敬遠した?」

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