第39話 思いやりの心、努々忘れること勿れ

 戦いは終わりを迎え、互いを労うように声をかけ合う二人。その表情は実に爽やかで、組手を始める前とは大違いであった。だからなのか、楼夷亘羅るいこうらが呟く冗談交じりの言葉も、后土こうどは受け流すように返答して見せた。



「はあっ⁉ 風呂ぐらい毎日入れよ! ――じゃなくて、俺が言いたいのはだな、育ちのことだ」

「育ち?」


「そうだ! 何があったかは知らねえが、がむしゃらに修練をする姿を見れば分かる。それは深く傷ついた心を忘れるためのものだ」

「忘れるため…………ですか?」


 切なそうに、過去を想い馳せる后土こうど。自らの生い立ちと重ね合わせ、心の想いを声にのせ伝える。すると、心に響くものがあったのだろう。暫く楼夷亘羅るいこうらは言葉を失い、物思いに空を見上げた……。


「やはり、図星か。まあ、俺は努力する奴は嫌いじゃねえ。一番嫌いな奴は強者の陰に潜み、なにも出来ねえと悲観した毎日を送る奴だ!」

「へえー、努力する奴は嫌いじゃない。――ってことは……つまり后土こうど様は、私のことが好きって言うことですね」


「――なっ、何故そうなる。さっきの言葉はだな、楼夷亘羅るいこうらのことを言ってるんじゃない。いくら過酷な修練を積もうが、俺はお前のことが大嫌いだ」

「ええー、そんなこと言わないで下さいよ。私はそうでもないんですから」


 言葉を失う楼夷亘羅るいこうらの姿に、后土こうどは確信を得て淡々とした様子で話す。しかし、ほどなくして自らの恥ずかしい発言に気づくと、目を逸らし照れながら意味合いを訂正してみせた。


「ふんっ――、お前のことなど知らぬ。勝手にしろ!」

「なるほど、他言無用。そういうことですね」


 背を向け不愛想な態度をとる后土こうど。その素振りをおかしく思う楼夷亘羅るいこうらは、口元に掌を当て含み笑いを浮かべる。


「――ちっ、違う。俺が言っているのはだな――」

「はいはい、分かりましたから。取りあえず、これで顔の泥でもお拭きください。」


 そんなやり取りの中。宥めるように言葉を遮る楼夷亘羅るいこうらは、胸元から四つ折りの手巾ハンカチを取り出し后土こうどへ手渡した。


「な、なぜこれを……? 今まで酷い事をしてきたのに、お前は俺のことが憎くないのか?」

「ええ。因果応報という言葉があるように、人を憎めば必ず報いは返ってきます。どんなに辛く苦しくても、相手を思いやる気持ちを忘れてはいけない。そうすれば……いつかはその優しさに、自分も触れることが出来るからです」


 受け取った手巾を握りしめ、后土こうどは申し訳なさそうな態度で呟く。その表情を見つめる楼夷亘羅るいこうらは、そっと頬を緩めて微笑んだ。そして心の想いを切なそうに語り、遠くの景色を見つめながら懐かしく想い馳せる。


 こうした過去に経験してきた心の想いは同じはず。これらの違いを見いだすため、后土こうどは自らの行いを振り返る。辛い時は周りの者達を虐げ、悲しい日々は同じ思いを与え続けた。そんな蛮行は愚かな行為、楼夷亘羅るいこうらと触れ合い少しずつ気付き始めたのかも知れない。


「一体どうすれば、誰も憎まずに強い心を保てるというのだ」

「強い心ですか……? 后土こうど様は、私のことを買い被り過ぎです。先ほどの言葉は、母さんが残してくれた温かい想い。ただ、それを信じて貫いているだけ……」


 后土こうどは心の内を問い掛けるも、楼夷亘羅るいこうらは心憂い様子で話す。それはあくまで、母親が言っていた受け売りの言葉。自分はその想いを広めているに過ぎないと。


「残した想い?」

「いえ、何でもありません。私の話はそれくらいでいいとして、単に泥のついた后土こうど様が見苦しかっただけですよ」

 

 含みを込めた言葉に、違和感を感じる后土こうど。傷ついた心と何か深い関係があるのか気になり、疑問の思いを投げかけてみる。ところが、楼夷亘羅るいこうらは突如として言葉を遮り、冗談を交じえながら話題を変えた。


「ふんっ、勝手に言ってろ。とにかく、仕方ねえから使ってやるよ」


 楼夷亘羅るいこうらの思いを察する后土こうどは、敢えてそれ以上は聞く事はなかった。むしろ珍しく気でも使ったつもりだろう。敵対的、好意的な態度といった二面性のツンデレのような素振りを見せるのであった…………。

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