第8話 八
夜が明ける前の薄暗い部屋で、清二は荷物をまとめていた。
この日で「奄美屋」を辞めることにしていた。
出掛けにおかみのお菊と顔をあわせて挨拶などすれば、また、色々な感情が湧き上がり、お菊からも何を言われるかわからない。
それ故に、夜明け前に、そっと出て行くことにしたのだ。
借金返済の目処は立ったが、自分がいなくなった店の先行きにはやや不安があった。お菊は根からの商人ではなく、誰かの助けは要るだろう。商人を雇うよう勧めたものの、もどかしい気持ちは残っていた。
部屋を出て様子を探り、足音を立てないようにゆっくりと玄関に向かった。
草鞋を履いている時、人の気配を感じて思わず振り返った。
お菊が立っていた。
「おかみさん・・」
悲しそうな目で清二を見つめている。
「やはり、黙って行ってしまうのね」
この顔を見てその声を聞くのが、辛かった。
数日前までは、心をときめかせていた顔と声である。一つ屋根の下で、この女と一緒に暮らす幸せを感じていた。
心の奥では、この暮らしがずっと続いて欲しいと願っていた。
清二は下を向いた。お菊の顔を見続けることが出来なかった。
「すみません、もう、このまま行かせてください」
「いつか、戻って来てくれることはあるのですか」
清二は首を振った。
「それはあり得ません。そのうち、あっしのことが世間中に広まるでしょう。あっしの本当の姿が、おかみさんにも知れるに違いありません」
「どういう事なの・・」
「そうしたら、軽蔑してください。あっしは、最低な奴です」
お菊が涙を浮かべながら清二を見つめる。
「そんな事はありません、そんな事は・・」
清二は顔をあげた。最後に、この女の顔を目に焼き付けた。
「一時でしたが、いい夢を見させていただきました。おかみさんには、感謝しかありません」
清二がくるりと背を向けて店を出て行った。
「お願い、待って・・」
背中に感じる女の声は、感情を揺さぶられる切ない響きだった。
振り返りたい気持ちを殺し、清二は足を早めた。
その足で越後屋に向かった。
主人の権兵衛にだけは、やはり一言挨拶が必要だ、との気持ちが硬かった。
玄関先での挨拶で済まそうと思ったが、取り次いだ丁稚が、主人の部屋に通すように言われたと、清二を部屋まで案内した。
意外なことに、権兵衛の顔は険しかった。その訳が直ぐに分かる。
「先日、奉行所の役人が来て、お前の事を色々と聞いて行った」
清二は言葉を失った。通り一遍の挨拶しか用意していなかったからだ。
「はい・・」
茫然と権兵衛を見つめるしかなかった。
「いや、別に、お前を問い詰めるつもりはない。もはや、私が関わることではないことなのだから」
権兵衛が視線を下げた。
「役人には、私の知るところはすべて話した。隠す必要もない」
清二が両手をついて頭を下げた。
「旦那様、申し訳ございません。これまでも、散々ご迷惑をおかけして、更に、このような事態に巻き込んでしまって・・」
情けない自己嫌悪の感情がふつふつと湧き上がった。体がガクガクと震えて、涙が止めどなく流れてきた。
清二は、しばらく頭を上げることが出来なかった。
肩に温もりを感じた。気付くと、権兵衛が手をかけていた。
「まあ、済んでしまった事は仕方がない」
清二は、涙と鼻水でクシャクシャになった顔を上げ、権兵衛を見つめた。
「旅の装いだな。江戸を離れて、何処か遠い所に行くということか」
清二は無言で頷いた。
権兵衛が懐から手拭いを取り出して清二に渡した。清二はそれで涙と鼻水を拭いた。
その様子を見ながら、権兵衛がフウとため息をついた。
「今度も、やはり、私はお前を救えなかったな」
清二が顔を上げた。
「はあ・・」
「店の者を守る事は主人の務めでもある。あの時、魔が差して店の金に手を出したお前を、寛大な心で正しい道に導くべきだったのだ。それが出来なかったという後悔を、ずっと抱えていた」
「旦那様・・」
「だから、小間物屋に勤め出したと聞いた時は、本当に嬉しかった。今度こそ、お前が真っ当な商人になる手助けをしようと思っていた」
清二が首を振った。
「旦那様には、十分助けていただきました。私の至らなさが全てです」
権兵衛がジッと清二を見た。
「行く当てはあるのか」
「いえ、まだ何も考えておりません」
権兵衛が頷いた。
「そうか。まあ、逃げるという事も、便利な処世術だ。必要な事だ。負けるとわかっているのに、無闇に突っかかる事はない。痛い目にあうだけだからな。逃げるが勝ちとも言う」
清二が黙ってうつむいた。少しだけだが救われた気がした。
「だが、いつまでも逃げ続けることなど出来ない。いつかは息詰まる。そもそも、そのような姿勢では、何の利益も生み出す事はないのだ」
権兵衛が言葉に力を込めた。
「時として、負けると分かっていても立ち向かわなければならない時がある。たとえ散々打ちのめされても、そこから得るものが必ずある。それが貴重な財産になる。商売だけではない。人としてもそこは同じだ」
権兵衛の言葉が、清二の胸にグサッと刺さった。経験した事のない鋭い痛みだった。その感覚が全身に染みて行く。
打ちのめされたように力が抜けて行った。
「さあ、もう行きなさい。足止めさせて悪かったな」
権兵衛が玄関まで見送りに出てきた。
「それでは、これで」
清二が頭を下げると、権兵衛が清二の肩に手を掛けた。
「今でも、時々夢を見るのだ」
清二が顔をあげた。
「お前が、この越後屋を取り仕切っている夢だ。私は隠居し、お前が店の全てを差配している。勿論、店は今以上に繁盛している」
権兵衛が頷きながら手を離した。
「私は商才を見極める目には自信がある。お前に、そういう才能がある事を、一度も疑った事はない」
天下の越後屋の主人が、そう言って微笑んだ。
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