86号線の報酬

城戸圭一郎

86号線の報酬

 男がスイングドアを押すのはこれで四度目だった。民泊に併設された、広いと形容できないこの酒場が彼の琴線に触れたわけではない。ましてや、カウンターの奥にいる顎髭を生やした店主と親しくなりたいわけでもなかった。

「おい店主。サンタクロースに会わせてくれ」

 男はポケットから取り出したコインを、カウンターに叩きつけた。

「ずいぶんと早いな。お前さん、ついに拘りを捨てたのかね」

 枚数を数えながら、店主は言う。

「いいや。貫いたさ。汚れ仕事はしていない」

「それが本当なら大したもんだ。次にお前さんに会うのは、てっきり俺の頭が全部白髪になった頃かと思っていたよ」

「ぬかせ」

「間違いなく十枚ある」

 店主の声が一段と低くなる。つられて背筋を伸ばしてしまった彼は、それを悔しいとは感じなかった。いよいよ、その時が来たのだから。

「お前は資格を得た」

 カウンターを滑ってきたのは、古びた鍵だった。



◇◇◇



 86号線の報酬


 エンジンが唸りをあげている。もちろん老朽化のせいじゃない。入社して最初の商談をまとめた記念に買った車だから、まだ十年しか乗っていない。叫ぶようなエンジン音は、俺がおかまいなしにアクセルを開けているせいだ。

 あの酒場で、古びた鍵を受け取ったあと、裏口から酒蔵に入り、棚の隙間に身を滑り込ませた。身体を傾けないと通れないような小さな鉄扉。錆びているわりに、スムーズに鍵が刺さり、軽やかに錠が開いた。下へ続く階段。薄闇の地下室で、その老人は髭を撫でていた。

 俺の「妹を生き返らせてくれ」というリクエストに、老人は無条件では応えなかった。無理もない。サナがまだハイスクールの学生だったころに家を飛び出した俺は、それから一度も会っていないのだから。偶然触れた訃報に取り乱すような資格があるとは思えない。だが唯一の肉親を大事に思ってなにが悪いというのか。

 サンタクロースの出した条件はひとつ。——次の夜明けの瞬間、妹の墓の前に立っていること——だった。なんてことはない。俺がそこへ行けば良いだけだ。エンジンが焼けようが、タイヤがバーストしようが、最終的にその瞬間、そこにいれば良いのだ。

 サナの暮らしていた街、スプリングヒルに向けて86号線を南下する。一直線に、川と砂漠と州境を超えて。陽はまだ高い。仕事でも同じだが、時間に余裕をもって行動すれば不測の事態に慌てずにすむ。このペースなら、夜明けどころか夕陽が拝めるかもしれなかった。

 荒野の道路脇に小さな建物が見えてきた。朽ちた看板から察するに、ガススタンドを兼ねた商店があったのだろう。遠目にもすでに廃屋になっているのがわかる。そして、その手前に一台の車が停まっていた。ボンネットが開いている。

「最悪。見てよこれ」

 俺が車を脇に寄せると、ボンネットの影から女が現れた。コーヒー色の髪をしたやたら薄着の女だ。俺は車を降りてエンジンルームを見てやることにした。

「急に動かなくなったの。なんなの本当に」

「よくあるのか?」

「度々ね。持ち主に似て性格が悪いのよ、このエンジン」

「持ち主はあんたじゃないのか」

「今はね。元旦那の。離婚訴訟の戦利品」

「見ただけでは異常はなさそうだぞ。臭いもおかしくない」

「ねぇ、直してよ」

「やってみよう。俺の車と接続して……」

 唇が塞がった。

「別のものを接続する?」

 女はそう囁きながら俺の首に手を回す。舌の感触に意識を持っていかれた次の瞬間、俺は自分が大間抜けだと悟った。後頭部に硬いものがあたっていたからだ。

「財布を出しぇ」

 背後から男の声。空気が漏れるような喋り方だ。

「カードと、シュマホも出しな」

 俺は両手をあげた。女が俺から離れるとき、互いの唾液が糸を引いた。女はそれを拭いながら、俺を嘲笑するように片頬を歪めた。なんて古典的な手にかかったものだろう。

 荒野の只中で、フライパンで焼かれる肉の気持ちを味わうとは思っていなかった。両親指を後ろ手に縛られ、閉じたボンネットに押しつけられたまま、俺はなすすべなくポケットを漁られた。奴らの興味のないものだけが砂の上に転がっている。

「やっぱり納得いってねぇ」

 収奪の興奮がひと段落したのだろうか。歯抜け男の声が低い。良くない展開だ。

「それで全部だ。気に入らないなら車も調べろ」

「なめんな。オレはシュマホの密売ルートをしゅってるんだ。きっちり儲ける。オレが言ってんのはしょういうことじゃねぇ。アンジー、おめぇのことだ」

 唐突に水を向けられた女は「は?」と返した。

「おめぇ、この男とキシュしたろ」

「そんなの打ち合わせ通りでしょ」

「違う」

「なにが違うのよ」

 歯抜け男は、女を平手打ちにした。

「なにすんのよ」

「長いんだよ」

「なにが」

「キシュだよ! いつもより長い! おめぇこの野郎のことシュキだろ!」

 男は二度三度と女を殴りつけた。逃げようとする女の髪を掴んで、頭部を車体に叩きつける。興奮が暴走した男は、銃のグリップを頭に叩きつけようと振り上げた。俺は気づいたら男に体当たりをしていた。

 男は銃を取り落としたが、倒れなかった。地面に這いつくばっているのは俺の方だ。腹を蹴られ、胸を蹴られ、臀部を蹴られた。もはや怒りの矛先は完全に俺になっている。このまま抵抗できずに砂にまみれて死ぬのだろうか。妹の墓まで行かねばならないというのに。次の瞬間、男の腹から飛び出した血が、俺の頬を濡らした。銃声はあとから聞こえたような気がする。

「お……おめぇ」

 男はゆっくりと振り返ろうとした。それをやり遂げるより先に、白目を剥いて崩れ落ちた。

「死ね。クソ野郎」

 アンジーは地面を蹴飛ばし、歯抜け男の死体に砂をかけた。それから、穴の開いた風船が萎むみたいにへたり込んだ。

「殺しちゃった……」

「……そのようだ」

「どうしよう」

「どうするかを一緒に考えよう。とりあえず、俺の結束バンドを解いてくれ」



 アンジーには別れた旦那との間に息子がいる。十二歳になるそうだ。親権が元旦那にあるのかと思ったが、そうではないようだ。

「公的施設に預けたあと、里親に引き取られて今はそこに」

 俺はハンドルを握りながら、助手席に座る彼女の横顔をちらりと視野に入れた。そのパターンに心当たりがないわけではない。両親ともに刑務所に入る場合がそれにあたる。あまり掘り下げないほうが良さそうだ。

「後悔してるの」

「さっきの発砲を?」

「子どもを手放したことを。ああ、でもさっきのも後悔してきたかも。クソ野郎だけど殺すほどではなかった」

「あいつは君にひどいことをした。自業自得だ」

 俺たちは歯抜け男の死体をアンジーの車に移し、廃屋の裏に隠しておいた。人通りのあるような場所ではないが、見つかるのは時間の問題だ。

「でも本当に良いの? あんた急いでそうだったし」

「急いではいるが、いいさ。子どもの顔を見たいと思うのは母親として当然だ」

「ありがとう。遠目でもいいの。一目見られたら自首するから」

 彼女の子どもが暮らしているロジャースデールは86号線上にある。スプリングヒルの手前だ。どうせ通り道なら、シートがひとつ塞がるくらい、なんの問題もない。

 アンジーはときおり堰を切ったように喋り出し、急に飽きたかのように黙る。それの繰り返しだ。もともとの性格なのかもしれないし、急ぐ理由をはぐらかす俺に対してヘソを曲げているのかもしれない。気に病むのも馬鹿らしいので、俺はひたすらアクセルを踏んだ。時間をロスしたがまだ余裕はある。時速130キロで走れば良いだけだ。

 タイタスは小さな街だ。86号線沿いに建つ学校を中心に、放射状に広がっている。喉が渇いたというアンジーの主張には俺も同意したので、立ち寄ることにした。速度を落として横道に入り、すぐにカフェスタンドの看板を見つけた。

「買ってくるけど、何にするの?」

「ノンアルコールビールを」

「冗談でしょ」

 呆れ顔のアンジーが車を降りたところで、バックミラーに映るトラックが気になった。角を曲がったところに停めなおしたほうが良さそうだ。そう思って車を発進させたのがいけなかったのだが、一体誰が想像できる? 歩道に家財道具が並んでいるなどと。バンパーが接触し、二人掛けのソファが少しだけ動いた。

 車を降りてあたりを見回す。テーブル、チェスト、フロアライト、ちょっとしたインテリアショップが出張してきたみたいだった。

「なんたってこんな酷いことをするんだい! この人でなし!」

 目の前のアパートメントから年配女性の怒鳴り声が聞こえる。俺の首は反射的に短くなった。が、投げつけられた相手は俺ではないようだ。怒声に追い立てられるように、スーツ姿の男が二人、路上に出てきた。

「我々は適切な法執行をしているだけだ。こうなることは何度も警告した」

 年配女性がスーツ姿を追って出てきた。白髪とブロンドの中間の髪色をしていて、恰幅が良い。

「家財道具を戻しておくれ! がらんとしちまって、部屋の中にバスケットコートでも作れってのかい」

「戻すもなにも、ここはもう貴方の家ではない。何度も説明したはずだ」

「ミアには連絡してくれるんだろうね」

「誰のことだ?」

「一人娘のことだよ。中東へボランティアへ行ったまま帰ってこない。この家がなくなったら、あの子はどこに帰ってくればいい? おたくらなら探せるだろ?」

 スーツ姿は顔を見合わせたあと、小さく首を振った。

「気の毒だがどうすることもできない。我々の仕事はこれで終わりだ。家財道具は明日までに移動を。できない場合の連絡先はここだ」

 男は女性にメモを渡して去った。廃棄業者の電話番号が書かれているに違いない。

 丸めたメモを投げつけながら「この人でなし!」と怒鳴ったあと、彼女はソファに身を沈めた。長く使い込んでいるのだろう。ソファは身体によく馴染んでいるように見えた。ここが路上でさえなければ。

「で、あんたはなんだい?」

 彼女は顔を動かさず、上目で俺を睨んだ。

「失礼。通りがかっただけです」

「車の鼻先でソファを押すのを通りがかったと言うならね」

「見られていましたか」

「今までそんな凹みはなかったからね」

「ぶつけたことを謝ります」

「正直なことはいいことだよ。正直なだけではダメなようだがね、この国は」

 俺はソファに腰を下ろした。彼女は怒らなかった。

「新鮮な眺めだ」

「あんたみたいな旅行者を何千人と見送ってきたよ。ここをただ通り過ぎるだけの人間をね」

「そこの窓から?」

「そうさ」

「ミアが帰ってくるんじゃないかと眺めてた?」

「うるさいね。母親が娘の帰りを待ってなにが悪い」

「悪いわけないですよ。ただ、家がなくなったことを知ったら、ミアはどこを訪ねるのかと思ってね」

 彼女は鼻を鳴らした。

「隣町にあるマルコのドーナツ屋だろうね。通ってたんだよ、毎週末。あたしは仕事が忙しくてね、あの子に優しくできたのは週末のたかだか数時間だよ。そこで甘いチョコレートのたっぷりかかったのをかじるのさ。ふたりで並んでね。古い話さ」

「思い出?」

「後悔だね。もっと近くにいてやれば、行方知れずになんてならなかった」

 俺は立ち上がった。

「行ってみましょう。マルコのドーナツ屋へ」

「行ってどうなる?」

「ここにいるよりマシでしょう。俺の車はそこの……」

 振り返った先に、怒り顔のアンジーが立っていた。ドリンクを両手に持っている。



「娘さんはどうして中東へ?」

「国際看護師の資格をとってヨルダンへ。私に似ずに勉強と人助けが好きでね」

「あら、素敵。聖人みたい」

「聖人なら親をこんなに待たせやしないよ」

 アンジーとマーサはすぐに打ち解けた。後部座席の中央に陣取ったマーサは、ミアがいかに良い娘であったかを蕩々と語っている。アンジーはしきりに合いの手を入れているが、あまり聞いてはいないようだ。たぶん、うまく回っている。

 15分ほど飛ばして隣町に着いた。ご老体を乗せている分アクセルを踏み抜かないようにしたから、常識的な速度だったと思う。マーサに案内されるまま、いくつかの角を曲がってドーナツ屋にたどり着いた。

「マーサ、俺のはあなたが選んでくれますか」

 俺の言葉に、彼女は肩を竦めた。

「とびきり甘いから覚悟するんだね」

「あたしはストロベリーチョコのかかったやつ」

「アンジー、あんたなかなか良いチョイスだよ」

 ドアを開けるなり店主が彼女を歓迎した。彼がマルコなのだろう。風船のように膨らんだ身体に、どこで手に入れるのか分からないサイズのエプロンをしている。ふたりの間に昔話の花が咲いた。俺は店には入らず西の空を見上げた。太陽はまだ高いがかなり傾き、景色にオレンジ色を加えつつあった。歌を口ずさみながら自転車を漕ぐ男性も、路地から出てくる郵便配達車も、美容室に入っていく女性の後ろ姿も、そして街灯に貼られたチラシも。

 俺は思わず駆け寄った。どこにでもある体裁のチラシだ。だが、今は別の意味を持つ。早くドーナツ屋に戻って知らせなければ。古本屋が、二階の空き部屋の入居者を探していると。



 時計の示す時間を嘘だと思いたいが、空の色が真実だと告げている。東の空にはすでに夜だ。

 古本屋の店主はマーサへ貸すことを渋ったため、俺が保証人欄にサインをすることで納得させた。そのあとタイタスへ引き返し、マーサの家財道具を積めるだけ積んで新居へ運んだ(さすがにソファは無理だった)。新居の窓からはマルコのドーナツ屋がよく見える。ミアの入る姿を見つけることができるかもしれない。なによりもマルコが真っ先に知らせに来てくれるだろう。

「ずいぶん飛ばすのね」

「息子に会うんだろ。早いほうがいい」

「警察に目をつけられたら厄介。結局会えなくなる」

 そうだった。彼女は殺人事件の犯人で俺は目撃者だった。俺は舌打ちを抑え込んで、アクセルの踏み込みを弱めた。まだ焦ることはない。彼女が降りたあとで時速165キロに加速すれば夜明けに間に合う。

 イーグルシティのビル群が見えてから、郊外に入るまでは早かった。それだけ裾野が広く人口が多い街だ。一気に駆け抜けたいが、都市にはつきものの渋滞がある。主要幹線道でもある86号線を外れて、別の道から抜けることにした。マップの渋滞予測を迂回しようとするとどうしても住宅街を走ることになる。ここは、あまり豊かではない人々の暮らす場のようだった。

 コインランドリー前の路上駐車を避けて進むと、その駐車車両の間から子どもが飛び出してきた。それも何人も。次々に反対側の路地へ消えていく。俺の車のボンネットを踏み台にしていくやつまでいた。

「まったく! なんなの!」

 アンジーが手を振り回す。

「分からないが、あまり刺激するな」

「あそこにもう一人いる」

 彼女が指差すとおり、コインランドリー前に少年がひとり残っていた。

「とっちめてくる」

「おいよせ!」

 俺が止めるのも聞かず、アンジーは飛び降りた。こう言う時は大抵、悪意ある大人が近くで様子を見ているもんだ。子どもの相手をしている隙に銃口を突きつけられるのがオチだ。俺は後を追ってアンジーの肩に手をかけた。予想と違った。

 少年は泣いていた。そして左足は義足だった。



 人が俺のことをどう思うかわからない。勇敢と言う者もいるだろう。愚かと言う者もいるはずだ。たぶん、その両方だろう。義足の少年レオナルドの盗まれたチケットを取り戻すために、俺はこの廃品処理場の前にいる。

 イーグルシティに本拠地を置くマイナーリーグチーム、そのチャリティマッチの試合が今夜ある。チケットは決して高額ではないが子どもたちにとっては貴重な非日常だ。事故で片足を失ったレオナルドにはなおさらだった。彼は、夢を持ってリトルリーグに所属した翌月に夢を失ったのだから。

 廃品の回収車が積荷を下ろしやすいよう、そこは一段高くなっていた。腰掛けて足をぶらぶらさせている子どもたちが何人かいる。口元にちらつく明かりは煙草だろう。健全な連中とは言えなかった。

 俺に気づき、身構えた。その素早さからは敵意を感じる。

「それ以上近づくな」

「まぁ、そう言うなよ。少し話がしたいだけだ」

「話ならその距離でもできるだろ」

「わかった。ではここで」

「失せろ。話すことなんかないね」

 矛盾に苦笑するしかない。

「レオナルドを知っているか?」

 連中は顔を見合わせた。そして、それぞれの口元に嘲りの色が浮かんだ。

「これを取り戻しにきたのか?」

 最も体格の良い少年が、チケットを指二本で挟んでゆらゆらさせた。

「話が早くて助かるよ。返してもらいたい」

「200ドルで売ってやる」

「交渉の余地は?」

「ないね。元値は7ドルだけど、どうする?」

 少年たちの笑い声がコンクリ壁に反射した。

「レオナルドな。リトルリーグに入団した時を知ってるぜ。コーチが手を叩いて喜んでいた。でもいまはなぁ。ヒットを打っても一塁にたどり着くまでに時間がかかるぜ。退屈したファーストがYoutube見始めるだろうよ」

 どっと笑いが起きる。

「他人の努力を笑うな」

 俺は彼らの正面に立った。体格の良い少年が荷下ろし場から飛び降りて、俺に相対した。身長はほとんど変わらない。

「あいつは酔っ払いのクソ親父のせいで足を失ったんだ。もう野球選手にはなれない。俺たちは現実を教えてやってるんだ。なかなか気づかないみたいだからよ」

 いつの間にか俺は、そいつの襟元を掴んでいた。

「夢を見てなにが悪い。チケットを返せ」

「それは200ドル払うって意味でいいな? 俺のをしゃぶるなら150にしてやるぜ」

 俺はそいつを突き飛ばした。

 驚きの表情を見せたのは一瞬だった。眉間と頬の上にさっと影が差し、間髪入れずに殴ってきた。一発目は避けたが二発目が腹に入り、前屈みになったところに三発目を食らった。とびきり重いやつだった。俺はめまいを堪えて、そいつにタックルをお見舞いした。馬乗りの位置を手に入れた俺は、両手でそいつの襟元を絞る。

「チケットを返せ」

「チーン。300に値上げだ」

 俺は頭突きを喰らわせた。

 その直後、仲間たちが駆け寄ってきて俺はたちまち取り囲まれた。八本の腕と八本の脚でつくられた暴力の輪に沈む。

 一発の銃声が、コンクリ壁を激しく叩いた。

「今のは警告」

 アンジーはこれみよがしに銃を見せつけた後、銃口を少年たちに向けた。

「次は誰かにあたる」

 少年たちは明らかに怯み始めた。一人が輪から抜けると、白けたように次々と背を向け、去っていった。チケットは泥の中に落ちていた。



 クリニックの待合室でも、イーグルシティ・レッドウィングスの試合を観ることができた。三回表でまだ両チーム得点はない。備え付けのテレビの画質は荒く、レオナルドが映っても判別できそうになかった。

 彼をスタジアムまで送ったあと、アンジーに説得されて医者に見せたはいいが、大したことはなかった。絆創膏程度の怪我なのに大袈裟だ。出費も痛いが、俺にとっては時間のロスが問題だ。これ以上寄り道をするわけにはいかない。

 窓口で会計を待っていると、隣の長椅子から会話が聞こえてきた。ひとりは老人、もうひとりは看護師だ。

「ですから、この薬はとっても大事なんです。きちんと欠かさず飲んでくださいね」

「わかった。そうするよ」

「他になにか不安なところは?」

「あんた、親切だね。このクリニックでは珍しい。あんたみたいな人が入ってくれて嬉しいよ」

「みんな親切だと思いますよ」

「いいや、三十年通っているがひどいもんさ。なぜ看護師に?」

「インディ・ジョーンズをご存知で?」

「観たことないやつなんているもんか」

「ペトラ遺跡に魅了されたんです。旅行では満足できなくて、どうしても暮らしたいと。医療資格を持てばNPOで働けて、現地に入れますから」

「最後の聖戦の舞台だな。あれは確か、シリアだったか」

「ヨルダンです」

「夢は叶えたのかね」

 大きく頷く看護師の横顔には、どことなく面影がある。俺は、会計係が呼び止める声を背中に聞きながら、ミアの肩を叩いていた。



 家を飛び出してしまうと、誰しも素直に帰ることができなくなるらしい。耳の痛い話だ。帰国したミアは西海岸でしばらく暮らしたあと、三ヶ月前にこのイーグルシティに引っ越してきていた。それでも母親の元を訪ねるには勇気が必要で、それを練っていたに違いなかった。

 いまの状況を知ったミアは、仕事を早退して母親のもとへ向かった。この街からはまっすぐ86号線を北上すればいい。あとはドーナツ屋のマルコが母親の新居を教えてくれるだろう。俺たちは南下を再開した。

「あんたといると退屈しないね」

「そりゃどうも。出会いからやり直すかい」

「できることなら。人殺しをせずに始めたかった」

 対向車のヘッドライトに目を細めながら、星空を切り裂くように走る。

「最後に息子にあったのは?」

「もう何年も前。役所の施設の窓越しに」

「会話は?」

 アンジーは首を振る。

「なぜ離れ離れに?」

「17で産んだの。若すぎて育てられなかった」

「相手の男は?」

「逃げた」

 今度は俺が首を振る番だった。

「だから引き取ってもらった。里親団体に。でも後悔していないわけじゃない。あれでよかったんだと頭ではわかっているけど、どうしても、息子を捨てたひどい母親なんじゃないかと眠れないときがある。月に何度も」

 俺はアクセルをさらに踏み込んだ。警察に目をつけられるかもしれないが、そうじゃないかもしれない。どちらにしろ十二歳の子どもが起きているうちにたどり着かなければ、彼女の希望は叶えてあげられないのだ。



 ロジャースデールの街は実に暮らしやすそうだった。規模は中くらいで、ショッピングモールがふたつある。高層ビルは一棟しかない。ささやかな夜景が消え始めるまで、十分に時間がある。

 アンジーは息子の住所を知っていたから、たどり着くのは難しくなかった。地元のバスケットチームに所属しているらしく、体育館での練習を終えて引き上げる一団のなかにその姿があった。車の中から見るだけと言っていた彼女は、早々に前言を撤回して外に出た。彼女のすぐ横を、少年たちが通過してゆく。俺はただ、フロントガラス越しにそれを見守ることしかできない。

 少年たちの後ろ姿が見えなくなってから、アンジーは助手席に戻った。親指の根本で涙腺を拭う。拭えば拭うほど溢れてくる。両手で顔を覆う彼女が泣き止むのを俺は待った。

「出して」

「どこへ向かう」

「市役所の右隣。気持ちが変わらないうちに早く」

 アンジーと俺は別れの挨拶をした。警察署の駐車場はがら空きで、風がよく通った。この時間になるとさすがに空気が冷たい。彼女の服装では寒いだろうから、予備のシャツをトランクから出してやった。

「ありがとう。楽しいドライブだった」

「ああ、俺もだよ」

「これで最後?」

「いや、最後じゃない。俺は証言台に立つ」

 彼女は目を丸くした。

「あれは正当防衛だから君の罪は軽い。証明できるのは俺だけだ」

「本気なの?」

「大事な用事を済ませたらここに戻ってくる。それまで待っててくれ」

「あんたって本当に……」

 彼女はその先を言わず、背を向けた。それから一度も振り返ることなく、警察署のエントランスに続く階段を登っていった。

 俺は運転席に戻り、残りの距離と時間を計算した。大丈夫だ。ここから一度も止まることなく、時速240キロで走れば間に合う。やってやれないことはない。



◇◇◇



 スプリングヒルと名付けられた町の郊外で、男は妹の墓の前に立っていた。手向ける花も持たず、ただ朝日を背に受けている。その影は長く、墓碑のさらに先、ウィローオークの樹の根本まで伸びていた。

 妹は、彼女が暮らした家のすぐ横で眠っていた。住宅街から外れた、小さな丘のふもと。白い壁の彼女らしいささやかな建物だった。

 辿り着いたときすでに夜は明けていて、男はサンタクロースと交わした約束を守れなかった。妹は墓に眠ったまま、生を取り戻すことはない。

「……失礼ですが」

 男は、影がもうひとつ増えていることに気づいた。

「サナのお兄さんでは?」

 振り返った先に、優しい顔をした青年が立っていた。

「やっぱりそうだ。彼女から聞いたとおりだ」

「どなたで?」

「僕とサナは三年前から一緒に暮らしていました」

「それは知らなかった。結婚していたなんて」

「届けは出していないんです。それにしても来てくれたなんて感激です。お会いしたかった」

「俺はそんな……」

 どこかから小さな声が聞こえてくるような気がして、男は言葉を止めた。

「ああ、メイが目を覚ましたようです」

 青年の視線は二階の窓へ。それは赤ん坊の泣き声だった。

「どうか会ってあげてくれませんか」

 優しく微笑む。

「サナと僕の、娘です」

 男は白い壁を見つめたまま、泣き声を聞いていた。それは次第に力強くなり、世界に向かって叫んでいるかのように思えた。

 男の頬に一筋の涙が伝った。そこからはもう止めることはできなかった。

 黄金色の朝陽が、男の背を温めている。



終わり

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86号線の報酬 城戸圭一郎 @keiichiro_kido

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