「すまない」で済まされた令嬢の数奇な運命

玉響なつめ

第1話

「すまない」


 何度かのデートの帰り道。

 そこで呼び止められた状態で言われたその台詞に、彼女は『またか』と思った。


 アナ・ベイア子爵令嬢。

 それが彼女を表す名前であり、地位だ。

 そしてそれとは別に彼女は最近こう呼ばれてもいた。


 傷物令嬢、と。

 二度も婚約解消された哀れな令嬢、彼女に非はないとされつつも二度も続けばそれは彼女にもなんらかの問題があったからそうなったのではと邪推を呼んだ。


 一度目は親同士が結んだ婚約関係だった。

 相手はオーウェン・ブラッドリイ伯爵令息、彼女と同い年であった。

 利害関係は勿論のこと、親同士の仲が良かったから結ばれた婚約関係はおおむね良好であった。

 幼い頃から言い聞かされていたこともあって二人はごくごく自然にその関係を受け入れていたように周囲は思ったし、それこそ本人たちもそう思っていたのだ。

 少なくとも、貴族の子息令嬢が社交目的でより深い知識を学ぶための学園にオーウェンが通い始めるまでは。


 この国では貴族の子息令嬢の大半が、王都にある学園に一度は在籍することが薦められる。

 勿論ただではない以上、すべての貴族籍にある人間が通えるかと問われると難しいところではあるが、国内にいる貴族たちと交流できる数少ない場でもあり、また成人前の子供同士の交流の場として擬似的な社交、そして次に繋ぐための人脈の架け橋として重用される場であった。

 同時に学園はその名の通り学ぶことができる場でもある。

 高位貴族は既に各家庭で家庭教師から学んだことよりも更に高度な教育を受けられるばでもあり、下位貴族は上質な教育を受ける良い機会でもあった。


 それゆえに資産に余裕のある家は兄弟姉妹揃って通わせることも少なくなく、下位貴族も嫡子を通わせることが一般的であった。

 そしてそうした背景も踏まえて、家同士の婚約が成立していない令嬢子息にとってはもう一つの側面がある。


 そう、出会いだ。

 親同士の繋がりや契約による婚約以外では主に社交の場に出てから相手を探すことが一般的であったが、この学園の運営が軌道に乗ると次第に社交の場に出るよりも前の段階、つまり学生生活で愛を育む者が増えたのである。


 別にそれそのものはおかしな話ではない。

 若さもあるであろうし、良い出会いがあるのならば積極的に行動したところで誰の迷惑になるでもない。

 最終的に男女の交際から婚約に発展するには貴族である以上、親の許可も必要であったし束の間の自由としておおらかな目で見ることも多かった。


『すまない――ぼくらは真実の愛を見つけてしまったんだ』


 だがそんな中で、あろうことか婚約者のいる身でありながらオーウェンは同学年の女生徒と恋仲になってしまっただけでなく、それを一年遅れて入学してきたアナに向かって衆目の前で解消の申し出をしたのだ。

 おかげでその醜聞はあっという間に生徒の間に流れ、生徒からその親に流れ、貴族社会を駆け巡る大スキャンダルへと発展したのである。


 勿論、こうなってはどうしようもないため両家共に婚約を解消した。

 本来であればオーウェンに過失有りとするところであったし、世間もそれを求めていたようだがまだ若いこと、彼らが本気であるならば大目に見てあげてほしいというアナの言葉もあって解消に落ち着いたのだ。


 世間はその当時、アナに対して非常に同情的であった。

 同時にオーウェンとその女学生……ミア・パラベル男爵令嬢に対して批判的な目も多かったように思われる。

 浮気をしたオーウェンと、婚約者もちの男性と恋に落ちたミア、そしてそんな彼らに手を差し伸べたアナという構図だ。


 幸いな事にアナには入学と同時にできた心強い友人たちがいてくれたので婚約解消のショックから立ち直ることができた。

 それでも一年以上は時間がかかった。

 友人たちの中でもジュディス・モルトニア侯爵令嬢はアナにとって誰よりも頼りになった。


 そんなジュディスには二人の兄がおり、次男であるモーリスが妹の大切な友人に対しアプローチを始めたことでアナにとって『二度目の』恋が始まる。

 継ぐ家もないと言いつつも侯爵家が持つ爵位を譲り受けることが決まっているモーリスは、アナの四つ上で朗らかな好青年であった。


 いつだって彼女をエスコートし、尊重し、紳士的に接してくれるモーリスとの関係は周囲からも微笑ましく見られたものだ。


 だがそんな幸せは長く続かなかった。

 それはアナとモーリスがいつものようにデートで出かけた先での出来事であった。


 偶然そこに居合わせた大道芸人たちがおり、立ち止まって眺めていたアナはその技巧に大はしゃぎした。

 見るもの全てが新鮮で、その喜びを伝えようと振り向いたところで彼女は見てしまったのだ。

 人が恋に落ちる瞬間を。


 大道芸を披露する中で演技中の女性と、モーリスが。

 互いに驚いたような顔をしながら、目を離せずにいた瞬間を、見てしまったのだ。


 思えばモーリスは常にアナに対して紳士であった。

 それは傷心の彼女を思いやる姿にも思えたし、年上男性の包容力とも思えた。少なくともアナはそう思っていた。


(でも違ったんだわ。彼にとって私は、大事な妹の友人だったから大切にしてくれていただけ……)


 そしてまたアナは言われてしまったのだ。

 辛そうな表情で、モーリスもまた「すまない」と言った。

 貴族の義務としての結婚、それを妹の友人とならばきっと穏やかな関係が築けるはずだと安易に請け負った自分に責はある……モーリスはそう言った。

 アナはそれを受け入れ、謝罪といくらかの詫びの品をもらうこととなり、つい最近学園を卒業した。


 学園の三年という短期間の間に、二度の婚約解消を経験したアナ。

 どちらも彼女に非はないという話ではあるものの、口さがない者たちの格好の的となってしまったことは言うまでもなかった。



 そうした周囲の視線に、神の門をくぐり修道女になる道を考え始めたアナを周囲は止めた。

 まだ学園を卒業、成人したばかりの若い彼女が人生を諦めるのは早いと。

 たまたま・・・・良くない縁が続いたのだと、次こそはきっとと励ましてくれた。


 中でもジュディスは兄の所業が許せないらしく、顔を合わせる度にアナに謝罪をしてくれた。

 それがアナにとって次第に重荷のようになってしまったとして、誰が責められるだろうか。


 そうして父とモルトレア侯爵が、次こそはアナに良縁を……と意気込んだところで三人目との出会いである。

 ロビン・マグダレア、彼は元々平民の出自であったが功績をあげ、現在は男爵の地位を与えられた将来有望な騎士であった。

 侯爵と彼の上官が知人という関係で紹介された縁であったが、アナにとってもロビンにとっても乗り気ではない縁談であった。


 しかしながら彼らに断るだけの理由もなく、そしてトントン拍子に話は進み、何度目かのデートで冒頭に戻る。


(ああ、まただわ)


 アナはそっと詰めていた息を吐く。

 今度こそ……そう思っていたが、やはり天は彼女を見放していたのだろう。


 特別に美しいわけでもなく、知恵があるわけでもない。屈強な戦士になるだけの肉体も、精神も持ち合わせてはいない。

 幸いなことに友人たちには恵まれており、彼女たちからは『一緒にいると寛げる』と褒めてもらえるがそれだけだ。

 彼女はすっかり自信をなくしていた。


 オーウェンに恋人ができたと告げられる前まではそれなりに自分は普通で、それなりの人生を歩み、それなりの苦難を乗り越えて平凡な幸せを手に入れるものだと思っていたのだ。他の人と同様に。

 ところがオーウェンからは別れを告げられて彼女は悲しくなった。

 だがその時は怒りも覚えていたし、もっといい人と巡り会って幸せになろうと思うだけの余裕がまだあった。


 だがモーリスのことでその気持ちはすっかり落ち着いてしまったのだ。

 彼に告白されたのも、ジュディスのため。

 そして彼は出会ったばかりの恋人のためにあっさりとその『妹のため』という気持ちまでもを謝罪で終わらせたのだ。


 アナにはどうして彼らが辛そうな顔をするのかわからない。

 辛いのは、別れを告げられるアナだというのに!


 そして決して彼らを悪者になどしたことがないと神に誓えるのに、アナは人々の好奇の目に晒されて、勝手な噂話を広められるのだ。

 そのことですっかりと心が摩耗してしまっていたのだ。


 だからロビンと出会い、何度か彼の職場見学をしてみたりこうしてただお茶をしに出てみることで心地よさを覚えていても、どこかでこうなることを予感していたのかもしれない。


「すまない、アナ。俺は……」


 きっと次に続く言葉は『運命の人に出会ってしまった』だ。

 すっかりすり込まれてしまった『すまない』とそれに続く言葉はアナの心に染みついている。


「君がまだ傷ついているとわかっている。だがもう自分の心に嘘はつけない」


 きっと睨み付けるようにしてアナの前に立つロビンを見て、彼女は小さく笑みを浮かべた。

 それはあまりにも空虚で、諦めきったような笑みだ。

 だがロビンはそれに気づかない。


 気づかないままに、彼は大きな声を発していた。


「俺と! 結婚してほしい!! 明日にでも!!!」

「はい、承知いたしました……って、え?」


 見合いだけれど今回は縁がなかったのだ……そう思って承諾の意をアナが示せば、彼女が想定していた言葉とは違うものだ。


「け、結婚? 明日?」


「ありがとうアナ……! 良かった、断られたらどうしようかと……!!」


「えっ、ちょっ、ちょっと待って……!?」


 喜色満面で笑みを浮かべ、式は別としても直ぐにでも籍を入れるべきだとすぐさまアナの両親に申し入れをしたロビンに誰もが驚かされたが、彼のその行動力と愛情表現には諸手を挙げて喜ばれた。


 かくして、傷物令嬢、と呼ばれたアナが電撃結婚をしたことでまた世間を騒がしたのである。


 そしてそれから程なくして、アナとロビンの二人が仲睦まじい夫婦として社交界で話題になる傍らで、かつて彼女の婚約者であったオーウェンが恋人の無知に愛想を尽かしたり、モーリスと運命の恋に落ちた旅芸人の女性が貴族社会にうんざりして飛び出していったりとまあそれはそれでいろいろあったのだがそれも新しい噂に呑み込まれていった。


「アナ、そういえば知っているか?」


「何をかしら」


「きみは自分が目立たないとばかり言うが、実はきみが相談に乗ってあげたり話を聞いてあげた人たちは軒並み出世しているんだ」


「え?」


「きみと話していると荒んだ気持ちが穏やかになって、自分を見つめ直せるらしい。素晴らしい才能だね」


「そんなことあったかしら……?」


「わからないってのが一番だな」


 そんな素晴らしい女性が自分の妻になってくれてよかったと心底ホッとするロビンをよそに、アナは首を傾げるばかりだ。

 確かに彼女の周りには才能豊かな人々がいて、彼らはアナといると寛げるとよく言っていたがそれだろうか。


(……特に何か相談に乗った覚えはないのだけれど)


「そういえばジュディス殿が嫁ぎ先の公爵家で大規模なパーティーを開くんだって?」


「え? ええ、王家の方々も招待するんですって。さっき招待状をもらったわ」


「じゃあドレスを新調しなくちゃな」


「……揃いのものにしたいわ」


「ああ、勿論だとも」


 傷心だった彼女を射止めたのは、巷で英雄のようだと囁かれる青年だ。

 ロビンは彼女のことを称えるが、彼自身も世間で称えられていることをよく理解していない。


「おっと、すまない……!」


「ふふ、貴方はダンスの時に謝ってばかりねえ!」


「ちっとも上手くならないんだ、笑わないでくれ」


 ただもういくらロビンが『すまない』と言ってももうアナが落ち込むことだけはない。

 それだけは、間違いようのない事実だった。

 

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