第210話 『天誅』
安政四年一月二十九日(1857/2/23) 江戸 大村藩邸
「おお! そうかそうか! 謙三さんが『生茶葉蒸器械』と『製茶摩擦器械』の開発に成功したと! ? そうかそうか! 良い事じゃ!」
4か国会談が終わり、クルティウスは下田から長崎へと戻っていった。
次郎はと言えば、純顕が登城して見聞役としての今回の交渉の経緯を説明している間、江戸表の関係各所へ挨拶を行っているところであった。
「修理様、
「うむ。そうであるな。……見事、という他あるまい。御公儀の交渉役をなされていた下田奉行の信濃守様(井上清直)も出羽守様(中村時万)も、さすがに程よい落とし所であったと思うぞ」
大村修理利純の側近である山川宗右衛門は、次郎の言動を知りたいようだ。
「宗右衛門よ。お主は次郎の落ち度を探しておるのか?」
「いえ、決して然様の事はございませぬ。ただ、殿のお加減麗しからず、
利純はフッと笑い、宗右衛門に答える。
「然様な事は思っても口に出してはならぬ。
それに、と利純は続けた。
「非の打ち所などない。あれ以上の言動ができようか。互いに衝突しようとした際には、見事にその舵を切り、わが方へ有利となるような話の運びようであった。真似をせよ、と言われてもわしにはできぬ。兄上が重用なさるのも無理はない。よいか。もし万が一、万が一の事があったとしても、わしがあの者を邪険にすることはない」
「はは」
■数日後 江戸 永田町藩邸~築地
江戸の街は冬の名残りと春の兆しが入り混じる季節であった。
永田町藩邸を出た純顕、利純、次郎左衛門の三人は、それぞれ籠に乗り、艦隊旗艦の
行列の前後には藩士たちが警護として付き従い、静かな威厳を漂わせながら進んでいく。
純顕は籠の
行列の中程にいる次郎左衛門は、常に周囲に目を配り、警戒を怠らない。
なんだか、嫌な予感がしたのだ。そして、そういう悪い予感は往々にして当たる。
……予感は、的中した。
行列が永田町を出て、虎ノ門を過ぎ、新橋に差し掛かろうとした瞬間、突如として鉄砲の
曲者! 出会え出会え! という警護の兵(陸軍所属の警備兵)の叫び声と共に、30名ほどの
銃声が鳴り響く中、不意打ちをくらった一行は瞬時に混乱に陥る。
最初の一斉射撃で、純顕の籠に数発の弾丸が命中。籠を貫通した銃弾の1つが純顕の左腕を
「くっ……」
純顕は歯を食いしばり、右手で傷口を押さえる。
利純の籠も襲撃を免れず、側面から飛んできた弾丸が彼の右肩に深々と突き刺さる。
「ぐあっ!」
鋭い悲鳴が漏れる中、利純は左手で必死に傷口を押さえるが、指の間から血が
衝撃で後ろに倒れ込みながらも、彼は刀を握りしめたまま立ち上がろうとする。最初の攻撃で3人とも致命傷を負っていないのは奇跡としかいいようがない。
「何をしておる! 殿を! 修理様をお守りせぬか!」
次郎はよろけながら立ち上がり、純顕の籠のもとへ向かう。籠の左右を守っていた助三郎と角兵衛の制止を振り払い、籠へすすんだ。2人は周囲を警戒しつつ次郎について行く。
陸軍兵たちは素早く態勢を整え、最新式の元込め小銃を構える。彼らの一部は既に反撃を開始し、不逞浪士たちに向けて精密な射撃を行っている。
「第一小隊、前列へ! 第二小隊は負傷者の保護を急げ!」
警護隊長の号令が飛ぶ。
陸軍兵たちは素早く隊形を組み、負傷した純顕、利純、次郎左衛門を中心に防御線を張る。純顕は痛みをこらえながらも冷静さを保ち、周囲の状況を把握しようとする。
「おお次郎! 大事ないか?」
「大事ございませぬ! 2度目にございますからな! わはははは! これより修理様の元へ向かいます」
いわゆる空元気ではあるが、怖くて震えそうになるのを、使命感のようなものが突き動かす。
「うむ、頼んだ」
頼む声には僅かに動揺が見え隠れしている。
「修理様! ご無事ですか?」
宗右衛門とともに警備兵が周りを囲んだ籠の中で、利純は痛みをこらえている。
「……ぐ! ……大事ない! 兄上は、兄上はご無事なのか!」
「は、大事ございませぬ! 修理様は……」
次郎は自分と純顕、として利純の傷口をみて、出血量から利純が一番重傷だと言う事を瞬時に判断した。
「一之進! 一之進はおらぬか!」
次郎は一之進を呼んで叫んだ。状況は最初の銃撃と襲撃こそ不逞浪士側に分があったものの、新式銃で武装された警備隊の反撃にあい、敵からの攻撃はなくなっている。
「ここだ!」
走り寄ってくる一之進はまっすぐに利純の籠に向かい、開放された籠の戸から中をのぞき込む。
「ご無事ですか! 修理様!」
「……大事、ない」
とは言うものの、さっきより声の力が弱い。
「まずは止血だ!」
一之進がテキパキと止血処理を行って、利純の肩から腕にかけて包帯を巻いていく。
「一之進! 殿は?」
「案ずるな! 別の医者が診ておる。出血もさほどないゆえ、命に別状はなかろう」
「そうか」
ほっとしたのだろうか、次郎はそこでガクンと膝をおとし、へたり込んでしまった。
「……おい」
「おい、次郎! しっかりしろ」
次郎のへたり込む姿に、周囲の者たちが驚きの声を上げる。
一之進は素早く次郎の側に駆け寄り、傷の状態を確認する。太ももの傷口から滴り落ちる血が、地面に小さな水たまりを作っていく。
「これは……予想以上に深いな」
一之進が顔をしかめながら
「しっかりしろ、次郎。お前が倒れては、殿も修理様も心配なさるぞ」
陸軍兵たちは依然として警戒を緩めず、周囲を固めている。時折、遠くで銃声が聞こえるが、それは逃げ遅れた不逞浪士たちを追う音のようだ。
「次郎はどうした? 大丈夫なのか?」
純顕の籠から心配そうな声が漏れるが、助三郎が籠に近づいて状況を報告する。
「殿、次郎様の傷が思いのほか深いようでございます。然れど一之進様が手当てをしておりますゆえ、ご心配には及びますまい」
「わかった。だが、油断はするな。まだ敵が潜んでいるかもしれん」
一方、利純の籠の中では、宗右衛門が主君の傷の具合を心配そうに見守っている。
「修理様、いかがでございましょうか」
「心配は無用じゃ、宗右衛門。これくらいの傷、なんてことはない」
利純は額に冷や汗を浮かべながらも答えるが、その声には明らかに痛みが滲んでいた。
現場は騒然としているが、陸軍兵たちの指揮下で徐々に秩序が保たれていく。負傷者の手当てが進む中、警護隊長が純顕の籠に近づく。
「殿、築地の瑞雲まで、急ぎ参りましょう。瑞雲には麻酔を始め医療設備が整っております。また、船上なら再度の襲撃も防ぎやすいかと存じます」
「うむ、あい分かった。これより皆で瑞雲へ向かおう」
瑞雲は目的地ではあったが、治療のため、急いでむかうこととなった。
下手人は、誰だ?
次回 第211話 (仮)『下手人とその波紋』
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