第209話 『落とし所と水戸の徳川斉昭』

 安政四年一月四日(1857/1/29) 江戸城


「それで、水戸殿はなんと仰せなのですか?」

 

 牧野忠雅が堀田正睦(昨年12月に篤姫が輿入こしいれのため改名)に問う。


「変わらぬよ。わしも昔から変わらぬが、あの御仁も変わらぬ。夷狄いてきなど我が国に必要ない。打払わないのであれば、せめて近寄らせるな。港もこれ以上開くなと仰せでな」


「阿部殿、海防参与に水戸殿を推挙したのは貴殿にございましょう。異国とは……長崎の開港はやむなしとして、一年後の開港を目処に、下田と箱館については薪水他を速やかに供すべく仕組みを整える。これでよろしかろうと、先日決めたではありませぬか」


 正睦が忠雅の問いに答えると、今度は久世広周が阿部正弘に苦言を呈した。


「然様。参与として如何いかに国を守るかをご献策いただいておるが、いらぬや打払えばかりでは、もはや時勢に取り残されておりますぞ。我が国は蒸気船の一つも造れぬではありませぬか。如何にして亜墨利加や英吉利を追い払うのですか」

 

 内藤信親も続いて正弘に迫る。


「ごほっ……。心配ご無用にござる。長崎開港は仕方ないとしても、此度こたびの条約も居住は認めず、通商も行わない旨、水戸殿はそれがしが責任をもって説きます故、信濃守(井上清直)や出羽守(中村時万ときつむ)にもそのように伝えていただければよろしい」


「「「「伊勢守殿!」」」」


 き込んだ正弘を囲むように他の老中が声をかける。


「なに、大事ございませぬ」


 そう言って正弘は無理に笑顔を見せては姿勢を正した。





 ■数日後 下田


「では、長崎の開港については来年の一月を目処とし、下田と箱館に関しては速やかに求める物を供せるよう、支度を整える事でよろしいか」


 日本側全権の井上清直がハリスにそう呼びかける。


「異論ありません。ただ、長崎開港までの間でも、補給が滞る事があれば、居住権を認めていただくと言う事をお忘れなく。これは、言質をいただかねば」


「わかりました。時にハリス殿、水と食料、ならびに薪はわかるが、燃料とは薪の事でござろうか? それとも、蒸気船を動かすための石炭でござろうか?」


「両方です」


「承知した」


 箱館に関しては留萌から、下田に関しては大村領や隣接する佐賀領などからも石炭を移送し、貯蔵庫を設ける事で純あきと幕閣との間で調整が行われていた。


 ・長崎を開港し、下田・箱館と同様に補給と一時的な滞在を可能とする事。(和親条約ならびに下田附録に準拠する)

 ・政府の船舶が入港した際は、知りうる国際情勢・情報を提供する事。

 ・長崎の開港は来年1月を目処とし、早まればその期日をもって開港とする事。





「次郎殿」


「クルティウス殿」


 条約の調印が終わって、クルティウスが次郎に声をかけてきた。


「お疲れ様でしたね」


「お疲れ様でした。お互いに」


 クルティウスの言葉に次郎は短く答えて苦笑いをした。


「某としては、国内世論がまとまって問題がなければ、すぐにでも通商を結びたいのですがね。おっと、これは失礼。オランダはそうではありませんでしたね」


「ははは。構いませんよ。事実ですし、今さら隠すような事でもありません。数年の内に複数の港が開かれ、自由貿易が始まるでしょう。この状態で自国の権益を守ろうとしても、正直厳しい。我らとしては幕府のさらなる信頼を勝ち取り、貿易における優位をいかに保つか。これのみです。ちなみに次郎殿は、今後どうなると?」


 オランダとの自由貿易は、洋式の軍隊や技術を導入するために必要であると、水戸藩をはじめとした攘夷じょうい派を抑える事は出来た。しかし、アメリカ・ロシア・フランス・イギリス等と通商条約を結ぶなど、時期尚早であるとの意見が根強いのだ。


 了仙寺からは海は見えないが、かすかに潮の香りがする。海辺で育った次郎にとっては、やすらぎの香りでもある。深呼吸してその香りを胸いっぱいに吸い込むと、クルティウスに向かう。


「わかりませぬ。お察しの通り、数年後には開港となるでしょう。ただ、今の状況を考えるに、下田と箱館の居住権は厳しいでしょう。治安を考えれば正直なところ、良いとは言えませぬ。それならばいっそのこと長崎にオランダと同じように居住区を設け、行動の自由をみとめた形の一時滞在権を与える形とし、ついで管理貿易、そして最後は自由貿易となるのではないかと考えます」


「ふむ」


 クルティウスは腕を組み、目をつむって考えている。徐々にその表情が和らぎ、目を開けると、口元にわずかな笑みが浮かぶ。海からの風が二人の間を吹き抜け、衣服を揺らす。

 

「なるほど。慎重かつ段階的なアプローチですね。幕府の立場を考えれば、理にかなっています」

 

 次郎は相手の反応を注意深く観察しながら、うなずく。周囲の木々がざわめき、その音が二人の間の沈黙を埋める。


「しかし、他国はそう簡単に納得しないでしょう。特にアメリカは……」


 と言葉を続けた。


「大統領の親書を直接将軍に渡す、という使命を帯びていますから、今回はいったん上海に帰ったとしても……下田奉行はもちろんの事、老中様に渡してもダメだと突き通すでしょうね。あくまでウエサマへ直接渡そうと」


 次郎が笑う。


「なぜ笑うのですか?」


「いや、少し遅れて……2~3か月遅れてますが、それどころではない事件が起こるはずです」


 アロー号事件である。史実であれば昨年の10月(旧暦9月)に発生するはずのアロー号事件が、まだ発生していない。しかしその下地は十分に熟成されており、いつ起こってもおかしくない状態である。


「次郎殿はときどき不思議な事を仰いますね」


「ああ、ええ。まあ」





 かくしてオランダを除く3か国は上海へ戻っていった。この条約と同様の条約を結ぼうとしてロシアがやってきたのは言うまでもない。





 次回 第210話 (仮)『天ちゅう

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