第194話 『堀田正睦老中首座となり、蝦夷地上知再燃す』

 安政二年十一月十七日(1855/12/25)


 神に祈るしかない、というのはこの事なのだろう。


 次郎は消火器や雲龍水の設置によって地震の被害を少なくしようと試みたが、確かに効果がなかったとは言えない。しかし、藤田東湖らの死因は倒壊による圧死であった。


 幸いにして大村藩藩邸(永田町)では死者はおらず軽傷者のみであったが、それでも家屋の損害は大きく、大名屋敷は、266家のうち116家で死者が発生した。


『火事と喧嘩けんかは江戸の華』というのは聞いた事があるが、地震以外にも大火というのが度々たびたびあった。そうやって笑い飛ばさないとやってられない、そんな気持ちだったのだろうか。





 ■江戸城


「このたび、首座を拝命いたしました、堀田備中守にございます。再任ならびに首座拝命につき身の引き締まる思いにて、皆様のお力添えの程、よろしくお願い申し上げまする」


 堀田正篤まさひろ(翌年の安政三年、島津斉彬から将軍家定へ嫁いだあつ姫をはばかって正睦まさよしと改名)は深々と頭を下げ、居並ぶ老中に挨拶をした。黒船来航から続く激務に首座であった阿部正弘の体調を考えての事である。また、正篤は幕閣の中でも図抜けた外国通で開国派であった。


 この正篤の老中再任については、正弘と昵懇じっこんであった水戸の徳川斉昭は『正篤は蘭癖で開国派である』との理由で反対した。島津斉彬は静観し、松平春嶽らはただの看板だと思っていたようだ。


「この正篤はお飾りであるとの話も聞きますが、お飾りとしても国を憂い民を思う気持ちは皆様と変わりませぬ。まずは先の地震における救済と復旧に尽力することが公儀の役目かと存じます」


 お飾り……の件は笑い飛ばす素振りを見せながらも、それ以降は真剣な面持ちで話を進める正篤に対して幕閣の注目が集まる。老中経験者の堀田正篤はただ者ではない。


 阿部正弘も自らに対する風当たりを弱くするために正篤を再任して首座に推薦したのだが、この辺りが幕閣内の権力闘争の結果とも言えるだろう。


 阿部正弘は調整タイプのリーダーであったが、それがために和親条約締結後に、反対した海防掛参与の徳川斉昭は辞職をしている。しかし同時に、攘夷じょうい派である斉昭の圧力により開国派の松平乗全、松平忠優(後に老中に再任後、忠固に改名)を八月四日に罷免しているのだ。


 斉昭は次郎が修正した和親条約を見て納得をしたものの、攘夷派のリーダーとして周囲には行動で示さなければならない。そのための辞職であり、圧力なのだ。


 これが開国派であった井伊直弼らの怒りを買った。


 その後政治的な孤立を恐れた正弘は、開国派の堀田正睦を老中に起用して老中首座を譲り、バランスをとって両派の融和を図ることを余儀なくされたのだ。


 胃が痛くなる、とは正にこれではないだろうか。


 



 ともあれ再任され首座となった正篤は、地震発生直後から行われた情報収集を継続し、市中取締り(巡視)の実施や無料埋葬や無料診療、米の配給と物価高騰抑制策の他に、災害復旧策を促進させて一刻も早い復旧を目指したのだ。





「加えて」


 と正篤は続けた。


「昨年の六月に設けた箱館の奉行所は、今年の三月とされていた箱館の開港を見越しての事にございましょう? それが、如何いかなる故にございましょうや、公儀ではなく松前藩の管領(管理)となっておりまする。蝦夷地は旗本御家人ならびに二男三男をもって草分け(開拓)を行い、その費えは周海の漁利で足る。そうここに書いてあるではありませぬか」


 阿部正弘をはじめ牧野忠雅・久世広周ひろちか・内藤信親らの老中は黙りこくってしまった。正篤はさらに続ける。


「松前城下は備えはあるものの、蝦夷地の広大な地は極めて備えが薄き事。その地の二、三割は寒さ厳しく野菜が育つにすぎぬが、残りの七、八割は諸穀・諸菜に適し、山には種々の良材や鉱物多し。周海の幸は莫大ばくだいであるにもかかわらず請負商人に託し、ただ運上金・仕向金を徴するのみ。請負人は蝦夷えみしを過酷に使役し不法も多い。そのためオロシアが恵みを施して惑わせれば蝦夷は帰服する恐れあり」


 苦々しい思いで聞いている幕閣をよそに正篤の説明は続く。


「松前家中のみでは到底全ての蝦夷地の備えに蝦夷の撫育ぶいくは行い難し、とはいえ東北の諸家中に分けて備えさせんとするは後々問題となり得る事。以上を熟考すれば旗本御家人ならびに二男三男厄介その他陪臣浪人等を移し屯田農兵にならい草分け(開拓)につくさば成功は難しに非ず(難しくない)。その費え(費用)は周海の利で足る」


 安政元年九月に幕府に提出された目付の堀利煕としひろ、勘定吟味役の村垣興三郎範正による報告書である。


 これにより、北蝦夷地(樺太)・択捉・国後を始め島々(千島列島)、東西蝦夷地一円、西は乙部村から東は知内村までを上知せらるべし、と結んである報告を読み上げて正篤は言ったのだ。


「しかるに」


 正篤は幕閣を見渡し、落ち着いて、ゆっくりと話す。


「しかるに奉行所とは名ばかりで松前の家中が差配し、公儀からは目付を送るのみ。これは一体如何なる故にござろうか? 阿部殿、お答えくださいますか」


 腕を組み目をつむっていた阿部正弘は、自分に聞かれているのを確認するかのように片眼をあけて周囲を見渡し、両目を開けて答えた。


「いや、備中守殿、これには色々と故があるのだ。話せば長くなるゆえ……」


「ですから、某がおらぬ間に、何があったのかをお聞かせ願いたい。なに、時間はあります。ゆるりと話されよ」


 正篤は笑顔を崩さない。もっともその笑顔の奥で何を考えているのかはわからないが、その笑顔が真に楽しく、喜びからでている笑顔でないことは誰もが知るところであった。


 正弘は正式に松前崇広に箱館奉行所設置の件を伝えた事、そこに大村藩(次郎)が介入してきて拒んだ事、蝦夷地の防衛は松前と大村の二藩で事足りるので、奉行所は設置するが事実上の運営は松前藩が行う事になった事を伝えた。


「……な、なにゆえに然様な事がまかり通るのでございますか。阿部殿、……各々方、よしんばれが通るとして、たかだか二つの家中で能うとお思いか? 能うはずがございませぬ」


 正弘の言葉を聞いた正篤は愕然がくぜんとした。そんな事が出来るはずがない。そう思ったのだ。


只今ただいまは如何なる事様ことざま(状況)にございましょうや? よもや捨て置いて(放置して)おる訳ではございますまい。奉行所からは文が届いておるのでございましょう?」


 奉行所設置から1年が経っている。状況が思わしくなければ即刻中止し、一気に蝦夷地全域の上知を行おうという考えだ。


「それが……」


如何いかがいたした?」


 阿部正弘の元に資料をもってきた幕臣に、正篤は鋭い声で問いかける。


「万事つつがなく、と」


「は? 然様な訳があるまい」


「いえ、すでに松前と箱館の間に、その……申し上げにくき事ではございますが、電信なるものを敷いており、馬も飛脚もいらぬほど早く文が届く仕組みを設けておるそうにございます。また、弁天岬に台場を築き、五稜郭りょうかくなる西洋式のとりでを箱館の郊外に設けております。これらは未だ造成の途にございますが、北蝦夷地の久春古丹クシャンコタンならびに択捉・国後の港を整え、各地に台場と陣所を設けておる由にございます」


 電信……だと?


 開国通である正篤はペリーがもたらした近代設備を知っていた。蒸気機関は理解できても、電信は魔術のような代物だと聞いている。それを松前と大村の二つの家中が敷設しているのだ。


 一体何が起こっているのだ? そう思わずにはいられない。


「さらに懸念のあった蝦夷の使役にございますが、大村と……特に家老の太田和次郎左衛門殿と松前の両家中、それに商人が談合の上過酷な使役をなくし、正し(適正な)対価をもって働いているようにございます。また、家中の武家の子弟や農民や浪人など、それらを数多く集めて奥地の草分け(開拓)を行っております」


 正篤は自分の理解が追いついていない事をすぐに把握した。つまり、幕府がやるべきことを、すでに外様の二藩が代わりに行い、成果をあげているという事実である。


「いやはや、一時はどうなるかと思いましたが、公儀の腹を痛ませる事なく備えがなせれば、これはこれで良しにございましょう」


「何をのんきな事を仰せか! 阿部殿! 貴殿がおりながら、なんたる仕儀にござるか!」


 幕閣の一言に、思わず怒鳴り声を上げてしまった正篤であった。あまりの剣幕に発言した幕閣は謝ったが、正篤も冷静になって謝り、その場では事なきを得た。


「申し訳ございませぬ。失礼いたしました。然れど、その太田和次郎左衛門とやら、一度会わねばなりませぬな。加えて海軍の伝習に行っていた者どもから、大村の家中の事をつまびらかに聞かねばなりませぬ。これは、一つ間違えば、命取りとなり得る事にございます」





 急ぎ、次郎と正篤の会談が組まれる事となった。





 次回 第195話 (仮)『対談、老中首座堀田正篤』

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