第188話 『次郎、ロシアへ』

 安政二年二月十八日(1855/4/14) 江戸城


何故なにゆえにございましょうや」


「控えなされ太田和殿」


 次郎は安政東海地震の際の救援活動も人道的に行った。

 

 医療物資の運搬やけが人の治療など諸々である。次郎はそれを誇示するつもりは毛頭なかったが、その際に沈没したディアナ号の代わりにヘダ号が造船された事は知っている。


 プチャーチンはそのヘダ号に乗ってペトロパブロフスクへ向かうのだが、全員は乗せられず、先行してアメリカ船を雇って159名の部下が同地へ向かうのだ。


 その役割を次郎は買って出たのである。


 大村藩の艦隊に乗員を乗せてペトロパブロフスクへ向かえば、ロシア側に無駄な出費をさせることもない。ヘダ号の造船費用は全て日本が負担しているが、帰国後は日本に帰属する事で了承している。


「日本人が異国へ渡る事が禁じられている事は重々承知の上にございます。然れどこれは渡るのではなく、送り届けるのみにございます。もし、お疑いであれば、御公儀のお役人様に御同乗いただき目付としていただいても構いませぬ。決して他意はなく、人の道に沿った行いであると信じております」


 次郎左衛門の大胆な提案に幕閣たちの間に動揺が走る。

 

 阿部正弘はじっと次郎を見つめた。その眼差しには驚きと共に、またとんでもないことを言ってきた、とあきれる気持ちが表われている。


「太田和殿、貴殿の案は確かに前例のないものだ」


 正弘は静かに口を開く。


「だが、単なる善意だけでは済まされぬ問題もあろう。仮に、仮に送り届けるだけゆえ、良しとしよう。然れど万が一、何か問題が生じたとき、その責を如何いかがなさるおつもりか?」


「問題とは何でございましょうや」


 正弘は次郎の質問に対し、かすかに苦笑を浮かべた。その表情には次郎の純粋さへの戸惑いと、同時に彼の勇気ある提案への敬意が混じっているようだった。


 この時代、同じような行為は行われていたかもしれないが、人道支援という言葉はない。次郎にはもちろん打算などなく、単に人助けでロシアに送り届けようとしていたのだが、結果的には示威行為ととれなくもない。


 ディアナ号は約2,000トンで全長は約60mである。幅は約15m、帆柱は3本で52門もの大砲を備えていた。対して大村海軍の艦艇は、すべてディアナ号より小型ではあるが、全艦が蒸気軍艦である。


 その蒸気軍艦五隻が、領土問題でピリついている樺太や千島を越えて、ペトロパブロフスクへ向かうのだ。現地に住まうロシア国民や軍籍の人間も、日本の海軍力を見直すに違いない。


「例えば、海を渡る途上にて不測の事態が起これば、それはすなわち国家間の問題となり得る」


 正弘は慎重に言葉を選びながら説明を続けた。


「嵐や海賊など、然様さような危うさは常に在るのではなかろうか」


「御老中様のご懸念はごもっともにございますが、まず一つ。嵐については、これは至善でもヘダ号でも同じ事。海賊もしかり。もし現われたなら全力をもって事に当たります」


 大村藩においては、軍艦は『丸』を除いて命名するようになっていた。


「……」

「……」

「……」


 次郎の理路整然とした説明に幕閣は重箱の隅をつつくような指摘をするが、それもすべて論破される。


「然れど、港を開いたとは言え、日本人の渡航は禁じられておる。断じて罷りならぬ」


 結局はそこに行き着くのだ。


「然れば、樺太までならばいかがでしょうか? 彼の地ならば日ノ本にございます。先だってのロシアとの条約では明らかに国境は定めておらねど、これならば日本人もおりますし、子細しさいなし(問題ない)と存じます」


 樺太(サハリン)は、かの有名な間宮林蔵が探険した土地として有名である。次郎はその樺太にある久春古丹クシュンコタン(大泊)までならどうか? という提案をしたのだ。


 大泊は昨年(嘉永七年)ロシアがとりでを築いていたが、クリミア戦争の影響で撤退している。箱館の開港はまだ先の話であるし、大泊は条約に全く関係がないが、緊急時である。


 それに次郎は、『樺太まで』とは言ったが、『大泊まで』とは言わなかった。


 まず日本側の港で最北の大泊まで向かう。その途上でも大泊についてからでも構わないが、ロシア船が渡航可能なロシア側の港があれば、そこまで送る。


 日本人はいなくても、そこは『樺太』であり、異国ではない。


 次郎の提案に、幕閣たちは静まりかえった。


 阿部正弘は表情を変えず、静かに目を閉じる。

 

 その姿からは、次郎の提案を慎重に吟味している様子がうかがえる。他の老中たちも互いに視線を交わしながら、この予想外の展開に戸惑いを隠せない。


「樺太まで、か」


 しばらくの沈黙の後、阿部が口を開いた。


「は。樺太までにございます」


 その時不思議な空気が二人の間に流れた。


 あうんの呼吸とでもいうのだろうか。次郎が何を言わんとしているのか、また次郎は正弘がどう考えているのか、通じ合ったような感覚であったのだ。


 正弘は注意深く観察していなければわからないほど、わずかに、ニヤリと笑った。


「方々、如何でござろうか。この次郎左衛門殿の言う事も一理ございます。樺太は日本故、異国に渡った事にもならぬし、俗な言い方で人の不幸を用いるようで心苦しいが、ロシアに貸しをつくる事もできよう。それに、この儀については公儀の腹は絶えて(全く)痛まぬ。ならばよろしいのではございませぬか? 我らには他にもやらねばならぬ事、決めねばならぬ事が山ほどございましょう」





 大村海軍艦艇五隻による、ディアナ号乗員の樺太までの移送計画が決まった。





 ■武蔵国


「お断りいたします」


「え?」


「ですからお断りいたします。ただでさえ忙しいのです。西国の肥前だか大村だか知りませんが、そこの御武家様、御家老様がこんな田舎の一百姓に用があるなんて事自体、信じられません。それにやっと今年、一人で藍葉らんようの仕入れを任されるようになったんでごぜえやす。他の事にかまけている暇はありゃあせん」


 とりつく島もない14歳の栄一の態度に、次郎から任された渉外掛登用組頭は困惑している。

 

 年下だからといって上から目線で話しているわけではない。しかしそれが、逆に栄一の目には疑わしく映ったのかも知れない。


「ごもっとも。ごもっともではございますが……そうだ、同じ武蔵国の高麗郡の平沢村の……」


「ん? 高麗郡の平沢村がどうかしたんですかい?」


「その平沢村の小久保健二郎殿も、確か十八で、六年前でございますが、我らの招聘しょうへいに応じていただきました」


「……招聘って、さらに胡散うさん臭い。わたしは学者でもなければただの蚕農家の息子でございます。それに、よそはよそ。その人はその人でございます。さあ、もうよろしいですか? もう出立せねばならぬのです」





 渋沢栄一の登用は、失敗に終わった。





 次回 第189話 (仮)『1,500トン級軍艦を買うか造るか』

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