第180話 『幕府対松前・大村藩。松前征伐とかならんよね?』

 嘉永七年七月五日(1854/7/29) <次郎左衛門>


 さて、幕府はどうでるかな?


 江戸時代の奉行は寺社奉行・勘定奉行・町奉行の三つに分かれていて、そのうち領内の都市部(町方)の行政・司法を担当する役職が町奉行。


 幕府以外にも各藩に寺社奉行や勘定奉行はいた。もちろん大村藩にもいるよ。


 でもいわゆる町奉行って言ったら幕府の奉行や奉行所の事で、遠山の金さんの北町・南町奉行が有名だね。ここで言う奉行は江戸以外に置かれた遠国奉行と呼ばれるもの。


 これまで頻繁に出てきた長崎奉行や浦賀奉行はその遠国奉行に分類される。


 重要な事は、それが各地の天領に設置されるということ。函館に遠国奉行の箱館奉行が再設置されるとなると、函館が天領になるという事だ。


 箱館が開港されれば、ゆくゆくは通商の中心は箱館になり、ただでさえ厳しい松前藩の財政を圧迫する。箱館奉行ではなく、帆別銭を納める事でよしとならないかな。


 それから完全に箱館奉行の管轄ではなく、松前藩管轄の箱館奉行で、幕府からは監察役を派遣してもらう。その上で松前藩の自治のもとに行政を行う。

 

 それが嫌なら、別の場所を開港するように変更しろ、と。


 うーん、失敗した。

 

 日米和親の条約締結時点で津軽藩か南部藩あたりにしておけば良かったかな。いやいや、アメリカが納得しないか。いや? そうでもないか……。


 終わってしまった事を悔やんでも仕方ない。幕府との交渉だ。





 ■江戸城





 拝啓


 時下ますますご清祥のこととお慶び申し上げます。


 て、此度こたび公儀より箱館奉行所を再び設けるとのお達しがあり候間、我が松前家中としての私意と存じ候得共、以下の通り思いを申し上げ候。


 まず、昨今の異国に対する海防の事様ことざま(状況)に鑑み、蝦夷地の備えはわが松前家中のみの問題に非ず、公儀としてあたるべきとのお考えであろうと拝察いたし候間、ご心配には及びません。


 の儀につきましてはわが家中一力にて処し能うと存じ候間、些かも(少しも)心に掛く(心配する)事なくお任せいただきたく存じ候。


 我が家中は長きにわたり蝦夷地を統べ、蝦夷えみしとの交易並びに北方の備えに力を尽くして参りけり候。その験の積み重ねは他に代えがたいものに候間、今またこれを公儀の蔵入地と為す事は、この地の動き無し営み(安定した生活)を損なう恐れがあると案じ候。


 加えて昨今の異国のわが国に対する事様とオロシアの南下を鑑みそうらわば(鑑みるならば)、北方の備は火急の問題であると考え候。


 然りながらこの重き役目は、この地の始末(事情)に通じ、長年の験を有する我が家中こそがふさわしいと考え候。


 加えて蝦夷地の草分け(開発)と交易は、我が家中のみならず、大村家中にとりても大いなる利をもたらしており候。


 殊に嘉永元年十一月より大村家中と掛け合い(交渉)を始め、嘉永四年六月以降に成りけり約にて、我が家中はこれまでにない利を得ており候。


 異国との儀(問題・課題)があると存じ候得共(思いますが)、度々たびたび公儀の都合で召し上げられては戻されての繰り返しに候間、只今ただいまの仕組みを変えれば重き問題を起こす事と存じ候。


 我が家中の自ら治める権を尊び、只今の助け合う仕組みを保つ事こそ、蝦夷地を動きなしとする策と存じ候。加えてそれこそが日本の益につながるべし(つながるに違いない)と存じ候。


 以上の仕儀にて、箱館奉行所を設ける儀につきましてはご再考いただきますよう、何卒よろしくお願い申し上げ候。


 恐惶きょうこう謹言。


 六月十一日


 松前崇広


 阿部伊勢守様





「な、なんだと!」


 阿部正弘の声が江戸城の一室に響き渡る。その声には怒りよりも驚きがにじんでいた。老中たちの間に緊張が走る。


「おのれ伊豆守め、公儀の命に従わぬとは如何いかなる了見か」


 幕閣の一人が立ち上がり、声を荒らげた。


「落ち着かれよ」


 隣の内藤信親が制し、座らせる。男は太ももを手で叩いて座るが、怒りが収まらない様子である。阿部正弘は書状を脇において深呼吸をする。

 

「方々、この事様を如何に致すべきか。伊豆守の言い分も解せぬ訳ではない。然れど公儀の威を保つためには、彼の者の案を鵜呑うのみにするわけにはいかぬ」


 阿部正弘の言葉に、部屋の空気が重くなる。老中たちは互いに顔を見合わせ、意見を述べるべきか躊躇ちゅうちょしている様子だ。松平忠優がせき払いをして口を開く。

 

「伊勢守殿、松前家中の長年の験を経た(経験)考えと行いは確かに貴く重き儀にございましょう。然れど公儀の命に反する行いは看過できませぬ。公儀の沽券こけんに関わりまする」

 

 ふう、と溜め息をついて、牧野忠雅がゆっくりと続けて発言する。

 

「然りながら蝦夷地を治め、オロシアに備えるには、松前家中の助けは欠くべからざるものにございましょう。彼の者等の反発を抑えつつ、如何に取り込むかが肝要かと」


「手ぬるい! 公儀は日ノ本の頂きに立ち、大名を統べるものにございましょう! 何故なにゆえに顔色をうかがわなくてはならぬのですか!」


 そうだそうだ! という声もちらほら聞こえる。


「方々! お考えは重々承知の上にござる。然りながら百年前ならいざ知らず、世の中は動いておるのですぞ。すでに、昨年ペルリが来航したみぎり、各大名どころか市井の者にまで、如何にすべきか問うた。これすなわち、公儀一力では、もはや国体を護持する事能わぬという事ではござらぬか。然りとて、あの場で問わねば如何に相成ったか分かりませぬ」


 阿部正弘の言葉が響き渡ると、部屋の空気が凍りつく。老中たちは互いの顔を窺い、誰も即座に発言しようとはしない。静寂が流れる中、松平乗全のりやすがゆっくりと身を乗り出す。


「伊勢守殿の仰せの通り、世の中は確かに変わりつつございます。然れど公儀の威厳を保つ事が最も肝要かとも存じます」


 乗全の言葉に、他の老中たちも小さくうなずく。


「然りながら、松前家中のこれまでの験を無にするわけにもまいりますまい。蝦夷地を統べるには彼の者等の験が欠かせませぬ」


 久世広周が咳払いをして発言した。正弘は目をつむって老中たちの意見に耳を傾ける。


「方々のお考え、承知いたした。松前家中の験は重き儀である。然りながら公儀の定めし儀を覆すわけにもいきませぬ」


 正弘の言葉に老中たちの間でざわめきが起こるが、内藤信親が静かに口を開いた。


「では、伊勢守殿はどのようにお考えで?」


「箱館奉行所はおきて(予定)の通り設ける事とする。然れど天領とはせず松前家中の管領かんりょう(管理)と致すが、公儀の役人を多数遣り、目付とする。合わせて、大村家中の様子にも目を立てねば(注視しなければ)なるまい」


 老中たちは互いに顔を見合わせ、侃々諤々かんかんがくがくあったものの、最終的には正弘の判断に同意の意を示した。


 この決定が今後の日本にどのような影響を与えるかは誰もが予測できない。しかし、幕藩体制の中に新たな波が押し寄せていることは、確かであった。





 ■大村藩庁


「それで、そのまま兵を蝦夷地に向かわせるのですか? 公儀と戦になりますぞ」


「然にあらず。公儀と戦などとんでもござらぬよ。松前の伊豆守様のご依頼にて、兵の調練に向かうだけでござる。オロシアの南下に伴って物騒になっておりますからな。それに、いちいち公儀に伺いを立てておっては、長崎と同じく機を逸する事にもなりましょう」


 松前藩と大村藩は蝦夷地の開拓とともに交易も行っているので、定期航路ができていた。蒸気船の開発により、無補給で蝦夷地の産物を大村まで運ぶ事ができたのだ。


 こちらからは米を売る。領内での石高は少なかったが、周りには米処が山ほどあるのだ。買って売れば、十分な利益になる。松前藩から購入した昆布などは会所を通じて清に売る。


 その他オランダにも販売していたので、まさにWin-Winの関係が大村藩と松前藩には出来上がっていたのだ。


 翌日、かねてから依頼のあった陸軍の調練のため、各陸軍の騎兵・歩兵・砲兵の一個小隊が松前へ向かった。





「五郎兵衛様、近ごろの太田和殿のなさりよう、如何いかが思われますか」


 家老、渋江右膳昌邦の言である。


「ふむ。わしも最初は格下と嘲っておったが、なかなかの人物。家中に益のある事を次々に行う手腕は、さすがとしか言いようがあるまい。然れど……」


 しばらくの後、大村五郎兵衛は続けた。

 

 五郎兵衛は純顕の親族であるご両家のうちの一つである。


「然れど、些か急いておるようにも見える。このままでは、我が家中は公儀と袂を分かつやも……いやいや、然様な事があっては一大事である。そうならぬよう一挙手一投足を見て、都度意見を申さねばならぬ」





 次回 第181話 (仮)『四賢侯』

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