第151話 『スクリューと九条幸経』

 嘉永五年六月七日(1852/7/23) 大村藩 精煉せいれん方 スクリュー研究室 


 象山が加硫によるゴムの安定化に成功した事と、潤滑油の開発が終了したことで、スクリュー製造の目処がたってきた。研究室内では実験結果を詳細に記録しながら、象山が助手たちに次の指示を出している。


「潤滑油の配合が完了した今、次はスクローフ(スクリュー)の試作だ。ルブデンアフティクティン(ゴムシール)を使用して水密性を確保し、スクローフスファクトゥ(スクリューシャフト)の摩擦を最小限に抑える必要がある」


 と象山は声を上げた。


 ※英語は話せないはずですが、便宜上、以降はカタカナ英語はそのまま表記します。


 



 ■造船所


 一角では、新型のスクリューが試験製造されていた。


 金属製のスクリューは精巧に鋳造・鍛造され、その表面は滑らかに仕上げられている。技術者たちは、スクリューシャフトの軸受にゴム製のシールを取り付け、軸受部分に潤滑油を注入していた。


「このゴムシールで水が内部に侵入するのを防げるはずだ」


 象山が確認しながら言った。


「潤滑油も正しく機能しているようです。次は水槽実験を行いましょう」


 助手の一人が答えた。


 試作されたスクリュー装置は大きな水槽に設置され、蒸気機関と連動するように接続された。象山は、水槽の前で緊張した面持ちで見守る。


「スクリューを回転させるぞ」


 象山が指示を出すと蒸気機関が低いうなり声を上げ、スクリューがゆっくりと回転し始めた。水槽の中の水が渦を巻き、勢いよく後方に押し出される。


「ようしっ! 予想通りだ! 軸の摩擦も最小限に抑えられている」


 象山は満足そうにうなずき、『次は実走試験だ』と言った。





 数週間後、造船所のドックでは、スクリューを搭載した小型の機帆船が静かに水面に浮かんでいた。この機帆船は初期に造られていた捕鯨船の中で、損傷があったものを補修し、スクリュー推進可能なように改造した船である。


「主機始動!」


 船長の号令と共に蒸気機関が動き始め、スクリューが回転する。船が静かに前進し、徐々に速度を上げていく。周囲の水面に波紋が広がり、船尾から白い泡が立ち上る。


「素晴らしい、実に素晴らしい! これなら外輪船よりも遥かに効率的だ」


 徳行丸の二番艦である至善丸は、スクリュー推進を見越して設計され、建造されている。勇み足かもしれないが、スクリューの開発が遅れれば搭載もできず、ドックの中で放置されるかもしれなかった。


 しかし、試験の成功により、あとは至善丸にあわせて設計されたスクリューを製造し、搭載するだけとなったのだ。





 ■京 岩倉邸


「おお次郎さん次郎さん、ようお越しにならしゃいました」


「岩倉様、お元気そうでなによりにございます」


 岩倉具視の挨拶にあわせて、次郎は一之進を紹介する。傍らには長与俊達と緒方洪庵の姿があった。


 例によって機帆船で大阪まできて、それから陸路で京都へ向かったのだが、商売は忘れない。今ごろは大浦慶と小曽根乾堂の番頭がせっせと商売しているだろう。


「大村家中、医学方総奉行、医師の尾上一之進と申します」


「同じく長与俊達にございます」


「同じく緒方洪庵にございます」


 順に自己紹介をする三人を見て、岩倉が言う。


「洪庵? 緒方洪庵殿? 大阪適塾の洪庵殿ですかな?」


「はい、私が洪庵です」


「ああ、そうであらしゃいますか。大阪適塾と言えば有名でありましゃるからの。その洪庵さんが次郎さんと一緒に。そうですか、洪庵さんが幸経さまを診られるのですか」


 岩倉は両手で洪庵の両腕を掴み、握手をしながらいった。


「ごほん」


 次郎はせき払いして言う。


「岩倉様、恐れながら診察するのはこの一之進にございます。二人とも一之進の弟子にございますれば」


「なんと! 洪庵さんを弟子にするとは。これはまた、えらいお人がこらしゃいましたな」


 岩倉は洪庵と同じように一之進の腕をつかみ、握手する。


(おい、次郎、岩倉様はいつもこんな感じか? 公家には見えぬぞ)


(うん。こんな感じ)


「では岩倉様、早速案内していただきましょうか。先触れは既に出しているはずにございますが」


「うむ。では行くとしましょう」





 ■鷹司政通邸


 岩倉具視が先導して一行が鷹司政通邸に到着した時、門前では既に政通の家臣が出迎えていた。


「お待ちしておりました。ただいま、お通しいたします」


 一行は邸内へと案内され、広間に通される。そこには鷹司政通と九条幸経、そして母親が待っていた。


「関白様、お約束の医師をお連れいたしました」


 岩倉具視は、横に立っている次郎を指して紹介する。


「まずはこちらが、先日お話しした大村御家中の家老、太田和次郎左衛門殿であらしゃいます」


「ご紹介に与りました太田和次郎左衛門にございます。本日は、我が家中の優れた医師たちをお連れいたしました」


 そう言って次郎は一礼する。政通は次郎をじっと見つめ、うなずいた。


「太田和殿、遠路はるばるご苦労であらしゃいました。丹後守殿の誠意、確かに受け取りました」


「お言葉恐れ入ります。幸経様のご快癒のため、我が家中の総力を挙げて尽力する所存でございます」


 鷹司政通は満足げに頷き、次郎の後ろに控える医師たちに目を向けた。


「では、こちらが御家中の名医たちか」


 次郎は一歩脇に寄り、横にいる一之進を手で示した。


「然様にございます。こちらが我が家中の医学方総奉行にして医師、尾上一之進にございます」 


「尾上一之進と申します。本日は幸経様のご診察に参りました」


 一之進は丁重に頭を下げるが、内心は『挨拶はいいから早く診察させてくれ』と言わんばかりに幸経を見ている。一之進の内心を察したかのように、鷹司政通は幸経の方を向いた。


「幸経、こちらの一之進殿に診てもらうのだ」


「父上、私は大丈夫です。そこまでの騒ぎではありません」


 幸経は少し困ったような表情を浮かべて言うが、母親は心配そうに幸経の肩に手を置く。


「幸経、母はあなたの体が心配なのです。大丈夫とは申せ、目まいで倒れる事もあるではありませんか。しかと診てもらいなさい」


 一之進は政通、母親、幸経をそれぞれ見まわし、確認したかのように幸経に近づいて、まずは全体的な様子を観察した。


「幸経様、少々お尋ねいたします。普段から血虚(貧血)はございますか?」


 幸経は少し考えてから答える。


「はい、時々めまいがしたり、立ちくらみを感じることがあります」


 一之進は頷き、手を差し出した。


「なるほど。では、お手を拝見させていただきます」


 幸経が手を差し出すと、一之進は脈を取り、爪の色を確認して、幸経の顔色や目の様子も丁寧に観察した。しばらくして一之進は、慎重に言葉を選びながら口を開く。


「幸経様には、仰せの通り血虚のしるしが見られます。然れど判ずるは難しにて、よりつぶさに診なければなりませぬ」


 鷹司政通は眉をひそめて前のめりになり、母親はオロオロとして心配そうに幸経を見ている。


「それは誠か? 何か良い治療法はないのか?」


 一之進は落ち着いた様子で説明を始めた。


「関白様、ご母堂様、そして幸経様、よろしいですか?」


 ……。


「良い、何なりと申すがよい。麻呂は無論の事、奥も幸経も覚悟はできておる」


 ……。


「では申し上げます」


 一之進は深呼吸をし、慎重に言葉を選びながら説明を始めた。

 

「幸経様のしるしを見るに、単なる血虚(貧血)ではないやもしれませぬ。それがしの知る限り、いくつかの重篤な病の恐れがありますが、まだしかと決まった訳ではありませぬ」

 

 一同が息を呑む中、一之進は続ける。

 

「血虚にはいくつかあり、その一つは、血を作る力が衰える病。今一つは、血の病の中でも最も厄介なもので、血そのものが悪しき血に変わる病。これは白血病と呼ばれます」

 

 覚悟は出来ていると言った鷹司政通の表情も、さすがに硬くなる。

 

「その……白血病とやらは、治せぬのか?」

 

 一之進は真摯な表情で答えた。

 

「申し訳ございませぬ。わが医術をもってしても、完治は難し病にございます。然れど諦めてはいけません。まだそうと決まった訳ではありませぬし、たとえそうであっても、出来うる限りの治療を施します」

 

 母親が震える声で尋ねる。

 

「では、我が子は……何か、何かできることは……」 


「ご母堂様。まず、幸経様の日々の生活と食事を整えることが重しにございます。則に沿った生活を心がけ、十分に休みを取ることが肝要です。決して疲れが過ぎたる事があってはなりませぬ」


 一之進の説明は続く。


「食に関しては、気血を補う材を多く取り入れる事が良いかと存じます。たとえば、黒豆や小豆、ゴマなどの穀物や種実類。また、これはあくまで薬としてにございますが、鶏肉や魚、特にコイやウナギなども良いでしょう。野菜では、ホウレン草や春菊、人参なども良き材にございます」


「私からも漢方の観点から申し上げますと、四物湯や十全大補湯といった漢方薬も良いかと存じます。これらは気血を補い、体力を回復させる働きがあります」


 洪庵が一歩前に出て、補足した。


「次に、手を綺麗にし、うがいを頻繁に行うことが肝要にございます。また、できるだけ人混みは避け、外出時には顔を覆うものを使用するのが良いでしょう」


 幸経と家族は、真剣な表情で一之進の言葉に耳を傾けていた。次郎は石けんと塩(塩水うがい)、マスクを準備して差し出す。


「さらに、出血には特に注意が必要です。激しい動きは控え、転倒やけがにお気をつけください。不自然なあざや鼻血が見られたら、すぐにお知らせください」


 一之進は最後に、幸経に直接語りかけた。


「幸経様、疲れやすく、めまいを感じることもあるでしょう。急な動作は避け、ゆっくりと体を動かすようにしてください。そして、毎日の体調の変化に注意を払い、何か異変を感じたらすぐにお知らせください」


 鷹司政通が尋ねた。


「一之進殿、これらを守れば、幸経は治るのか?」


「関白様、これらの方法は幸経様の体の調子を整え、症状を和らげるためのものにて、ふつと(完全に)平癒するのは難しやもしれませぬ。然れど、諦めずに最善を尽くすことが肝要にございます」





 そう言って次郎と一之進一行は、かかりつけの医師(医学部卒業生で医師免状を持っている)を京の藩邸に常駐させ、定期的に診察をさせて逐一、一之進へ報告するようにしたのだった。





 ■岩倉邸


「次郎さん次郎さん、如何いかがでしょうか。幸経様は重病なのであらしゃいますか?」


 岩倉はもちろん幸経の事を心配していたが、紹介した手前、すぐに良くなる事を期待していたのかもしれない。


「岩倉様、それがしは医師ではありませぬゆえ存じませぬが、傍らで聞いておりますれば、今日明日にでも死に至るような病ではない様子。然れどなる(正確な)病の名もわからぬゆえ、今の症状を和らげ、進行を遅らせる事が肝要。そうであろう、一之進」


如何いかにも。岩倉様、力不足で誠に申し訳ありませぬ。然れど、全力を尽くさせて頂く所存にございます」


「いやいや、そう言う事ではないのだ。すまぬ」





(一之進、要るものがあれば、何でも言ってくれ。金も出す。医療機器や薬の開発に必要な物は、できる限り準備する)


(ありがとう。頼む。この時代に来て、何度も思うが、前へ進むしかない)





 次回 第152話 (仮)『別段和蘭風説書』

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