第149話 『浦賀と朝廷』(1852/4/20)

 嘉永五年三月二日(1852/4/20) 浦賀みなと


 シュッシュッシュッシュッ、ガシャンガシャンガシャンガシャン……。


 幕府の命を受けて次郎たちは浦賀湊で停泊し、使者を待っている。湾内には幕府が建造した晨風しんぷう丸をはじめとした小型の洋式帆船が数隻停泊している。


「全長五十五尺(16.7m)、最大幅十三尺(3.9m)、喫水四尺二寸(1.3m)というところでしょうか」


 昇龍丸の艦長が次郎にそう告げる。


「ふむ。蒼隼丸の二番艦だな。我が艦の半分以下だ。武装は?」


「……艦首に、三貫目……ハンドモルチール砲一門と、あとは百五十匁ダライハース砲六門が確認できます」


「わかった。引き続き監視を続けてくれ」


「は」


 次郎はそう言って客室に戻った。





「初めてお目にかかります、浦賀奉行、戸田伊豆守(氏栄うじよし)と申します」


「同じく与力、中島三郎助と申します」


「上陸できていないのが残念にござるが、肥前大村家中、家老、太田和次郎左衛門にござる」


 次郎は、幕府の使者たちに一礼し、氏栄は微笑みを浮かべながら応じた。


「浦賀での留め置きをお受けいただき、感謝いたします。貴殿らの昇龍丸が江戸湊に入り船し、商人と話を進めるという当て所(目的)は存じております。然れどその前に、この蒸気船が江戸湊へ入った際の、民の驚きや戸惑いを察していただきたいのです」


 その言葉に次郎は深くうなずき、答える。


「心得ております。見た事のない蒸気船の姿は多くの者にとって驚きにござろう。ならば、ここ浦賀までならよろしいか? 江戸湊へ入らぬのであれば、御公儀も心悩ませる事はございませんでしょう。浦賀までならよろしいか?」


 正直なところ次郎は一ヶ月以上も待たされてうんざりしていたのだ。ここでさらに待たされるくらいなら、浦賀に上陸して陸路で江戸に行った方が早い。


「確かに、浦賀までなら民心への影響も少ないでしょう。では、浦賀での上陸を許可いたします。その代わりそれがしと中島三郎助が、昇龍丸をくまなく見る事をお許し願えませぬか?」


 氏栄は少し考え込んだ後、答えた。


「もちろんです。ご自由にご覧ください」


 次郎が答えると中島三郎助が続けて尋ねる。


「道中の護衛は必要ですか?」


「要りませぬ。我らの護衛がおりますゆえ、ご案じめされるな。御公儀のご配慮に感謝いたします」



 


 二人は時間をかけてじっくりと昇龍丸を隅々まで観察し、筆をとって帳面に書き記していた。やがてそれが終わり、二人が帰った後に次郎達は上陸準備を始め、日没前にようやく上陸ができたのだ。


 上陸し、一泊してから江戸に向かう事となる。





 ■京都 鷹司政通邸


 関白の鷹司政通は自宅の美しい庭で歌会を開き、息子の九条幸経を招いていた。緑豊かな庭には静かな風が吹き、親子の会話が心地よく響いている。





 春の風 桜の花びら 舞い降りて 心を映す 庭の静けさ


「父上、その句は実に見事です。私も一首詠ませていただきます」


 九条幸経は父の句に応えるように、静かに口を開いた。


 春の庭 父の詠む句に 心寄せ 共に楽しむ 親子のひととき





 なごやかに進む歌会の席に、岩倉具視が到着した。


「岩倉よ、よう来た。近う寄るのだ。近ごろの異国の事の様を聞かせてたもれ」


 政通は岩倉を温かく迎えて海外情勢を聞く。


 義弟である徳川斉昭からも異国の情勢を聞いていた政通であったが、岩倉が海外通の次郎と懇意にしていると知ると、岩倉にも定期的に情報提供を求めてくるようになったのだ。

 

「ありがとうございます、関白様。近ごろは益々異国船がこの日ノ本の近くにて徘徊たもとほりたる有り様におじゃりまする。その中でメリケン国は勇魚いさな(鯨)を獲るために徘徊たもとほりて、かれば(そういう訳で)水、薪、糧料ろうりょう(食料)を求めて通商求めてこうようかと考えましゃる」


「ふむふむ。然様か。その他には?」


「エゲレス国においては、隣の清国に討ち入りて勝ちましたが、只今は太平天国と呼ばれる異教を信ずる徒党が国に抗い、戦を起こしておりましゃる。そのためエゲレスが欲しておりました茶や生糸が手に入らず、この日ノ本へ通商を求めて来ようかと考えましゃる」


「それで、我が、わが日ノ本は大事ないのか?」


「その儀については、公儀は和蘭との商いの限りをなくしておりましゃる。その上和蘭の優れた技を盗んでは、自らの血肉とするべく励んでおると聞き及びましゃる」


「異国が、清国へ掛かった(攻めた)ようにわが国へ取り掛く(攻め寄せる)事はないのか? 公儀はそれでも抗いうるのだろうか?」


「それは……」


 その時、突然、九条幸経が鼻血を出し、そのまま貧血で倒れてしまった。驚いた政通と母親は、すぐに駆け寄る。


「父上……。これはただの鼻血です。ご心配には及びません」

 

「幸経、大丈夫か? 斯様なことが度々起こるのか?」

 

「お前様、幸経の貧血は今に始まった事ではありませぬ。幸経、母はあなたの体が心配でなりません」


 その様子を見ていた岩倉具視は、次郎の知り合いに優れた医者(一之進)がいることを思い出し、提案した。


「関白様、麻呂は薬師ではありませぬゆえ、幸経様のご病気の事は存じ上げませぬ。然りとて、ご体調が優れぬようにあらしゃいますのは、確かでありましゃる。実は麻呂の知己にいと優れた薬師がおりましゃれば、もしよろしければ、一度診て頂いてはいかがでございましょうや?」


「岩倉、それは誠か? 幸経、どうだ、診てもらおうではないか」


「……わかりました。お父様、お母様、ご心配をおかけして申し訳ありません」


 このようにして、鷹司政通は息子の健康を心配し、岩倉具視の提案を受け入れることとなった。





 次回 第150話 (仮)『ソルベー法と九条幸経』

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