第121話 『セメントの続きと臭水樽揮発問題』(1850/2/19) 

 嘉永三年一月八日(1850/2/19) 大村藩政庁


「高炉セメント?」


 全員が信之介の方をむいて会議が中断し、その高炉セメントとはなんぞや? という話になってしまい議論が何日も続いている。次郎が予測、というか史実で発生するコレラは1858年。


 あと8年で下水道を整備して、公衆衛生を向上させようという次郎の計画に、もう一つの候補が上がった。


 ポルトランドセメントとの違いは、次の点だ。


 ・石灰石の使用量が削減できる。

 ・初期強度が小さいが、長期強度が大きく、化学抵抗性・耐熱性・水密性・アルカリ骨材反応抑制などの向上に効果がある。


 ただし、問題もある。信之介は高炉セメントの配合としてクリンカー(ポルトランドセメント)70%と高炉スラグ30%という配合比率は知っていた。しかし現実は数字の通りにはいかない。


 設備の問題、技術の問題、ノウハウの問題。信之介のざっくりとしたアドバイスだけでは、さらに開発・研究を加えないと実用化できないのだ。そして、実用化の後の施工である。


 施工期間については概算の期間が提出されている。


 まず、施工面積だが、大村城下の約300町(≒3km²)を施工するとして、3年が必要との結論がでた。1858年のコレラ流行の1年前の1857年に工事が完了するとして、1854年、つまり4年後までに開発が必要だ。


 工期についてはコレラ発生が夏頃なので三ヶ月~半年の余裕がある。


 議論は紛糾したが、結局最新のポルトランドセメントの技術をもった技術者他が開発に参入し、間に合わなければ高炉セメントではなくポルトランドセメントで施工をすることとなった。


 第一案が高炉セメント、第二案がポルトランドセメントである。


「おい、できんのかよ?」


「わからん」(クラクラ~⇐目まい)


「言った事には責任持てよ?」


「いや、オレアイデアダシタダケヨ?」


「やかましい」


 信之介と一之進の掛け合いだが、コレラの流行は分かっている事だ。最悪、開発できなくても工事は完了しなくてはならない。工事費用の見積もりは、3万6千411両。下水道管の総延長は約26kmを想定した。





 ■数日後 <次郎左衛門>


「ただいま~。うーん、やっぱり地元はいいねえ」


 俺はやっとのことで江戸から戻り、勝海舟と高林謙三と一緒に政庁に行った。


 本当は家でゆっくりして、ビールでも飲んで寝たい心境だ。寒い日に、暖かい室内で飲むという贅沢は、格別なのだ。ちなみに冷蔵庫は、手動冷却ではあるが5年前の弘化二年に研究を開発して完成している。


 もちろん、殿に最初に献上し、家老のみんなの分も製造している。


 氷を使って冷やす原始的な物だが、定期的にポンプを押して冷やし、氷を製造して冷やしている。





「あれ? なんだあの人だかりは?」


 次郎達が政庁(城)の入り口近くにいくと、何人もの男達が検査を受け、門番と押し問答をしている。


「いかがいたした?」


「御家老様、実はこの者達が……」


 俺は門番が指差す男達の方を見た。


「あ! な! 先生! いかがしたのです! これは一体? 適塾は? 大阪は?」


 緒方洪庵をはじめとした適塾の門下生が、一斉に俺の方を向いて頭を下げる。


「次郎左衛門様、お久しゅうございます。一之進殿の言いつけどおり大阪で塾を続けておりましたが、どうにも知識欲が収まらず、よくよく考えた末、塾を閉め、こちらに参った次第にございます。わがままな申し出とは存じますが、なにとぞお引き受けいただきますよう、お願い申し上げます」


 そう言って、洪庵は再び頭を下げた。


「いや、先生! 頭を上げてください。先生がそのつもりなら、それがしとて、断る理由はございませぬ! ここ大村にて大いに先生のお力を発揮していただきとう存じます」


 予想外の展開だが、嬉しい限りだ。この時点で適塾に在籍していた人材が宝になる!





「申し上げます! 御家老様」


「なんじゃ?」


 信之介の御用掛が走ってきて俺に伝える。


「臭水の件にございます」


「臭水? 臭水がいかがいたした?」


 松代藩で契約はしたが、本格的な採掘はまだであり、越後や駿河では調査の段階であった。それでも精製の研究のために必要量は調達して倉庫に保管していたのだ。


「は、この儀はなんども総奉行様(信之介)にお知らせ申し上げていたのですが、わかった、というばかりで気にもとめていらっしゃらないようで。ただ、あまりに続きますのでご報告に参った次第にございます」


 あの野郎、なんか面倒臭い事を押しつけられそうで無視してやがったな。


「うむ。それで?」


「は。皆様が研究に使う臭水なのですが、樽に入れて保管しておっても、数日で目方が減っているのです。どこか漏れているのかと思い調べてみたら、確かに漏れもあるのですが、不思議な事に、漏れてもおらぬ樽も減っておったのです」


 ……気化だな。あんにゃろう、減っても買えばいいなんて思ってたんだろうが、確かに安いからそこまで目くじらたてる事もないんだけどさ。ドラム缶、つくってもらおう。


 今、確か缶詰も作っていただろ? 大きさは違うけど、共通項はあるんじゃないか?


「あいわかった。その儀はわしから信之介へ伝えておく故、戻るが良い。ご苦労であった」





 こうして、大村藩でのドラム缶製造の研究が缶詰と並行して行われる事となった。


 



 ■お由羅騒動の結末


 次郎達四人が発明や開発、藩政にあけくれていた頃、薩摩藩では大事件が起こっていた。


 薩摩藩の財政改革を一手に担って、成果を上げていた調所広郷が密輸事件の責任で自害したことに端を発した、いわゆる『お由羅騒動』が加速していたのだ。


 斉彬の男子が二人続けて早世したのは、久光の生母であるお由羅が呪詛を行っている噂もたつくらいであった。


 昨年、斉彬派の重鎮たちが暗殺を謀議したとして捕縛され、切腹を命じられた。斉彬派約50名も処分され、斉彬の襲封は絶望的となった。これが史実での流れであったが、今世では違った。


 斉彬の年下の大叔父である福岡藩の黒田長溥が動いたのだ。

 

 正確に言うと、斉彬が根回しをして、襲撃の謀議はえん罪として切腹をやめさせ、斉興の隠居を老中阿部正弘を通じて、将軍家慶へ要請したのだ。


 要請を受けた家慶は、斉興に茶器を渡し(茶でもたしなむように、と暗に隠居を命じる)、ここにきて、ようやく隠居、斉彬が薩摩藩主となったのである。


 史実とは1年違いの藩主就任であるが、斉彬派の藩士が無傷で生き残った事は、薩摩藩の発展を加速させる事となる。





 次回 第122話 (仮)『吉田松陰、平戸藩より大村藩へ向かう』

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