第84話 『七郎麻呂一橋家を継ぎ、孝明天皇即位す。天下の遊学先は江戸よりも大村になるやもしれず』(1847/10/9)

 弘化四年九月一日(1847/10/9) <次郎左衛門>


 大政奉還=徳川慶喜が、一橋家を継いだ。


 水戸の権中納言様(徳川斉昭)は、父親からは譜代の養子にはならないようにって育てられたらしいけど、自分の息子はどうなんだろう。優秀な慶喜さんを手元においておきたかったんじゃないだろうか。


 それとも御三きょうに養子に入れて、何か企んでいるんだろうか?


 あのたぬき? じいさんなら、やりかねないけど。将軍家慶の意向を老中の阿部正弘から伝えられたら、断れないのかもね。でも、これで七男坊の慶喜さんが歴史の表舞台にでてくる。


 



 さて、それから九月二十三日(10/31)に、孝明天皇の即位の大礼が行われた。信州の地震の傷跡はまだまだ癒えない。それでもこの大礼を行う事で、国民の幸せを願ったのかもしれない。


 国民の無病息災を願う儀式は他にもあるんだろうけど、おそらくは復旧の一段落がついたからなのかな?


 現代だったら、今も(この時)変わらないかもしれないけど、時期は慎重に決めるとは思うけど。


 献金は根回しをしておいた。諸大名の中では破格の金額だ。西国の小藩が、と言われる金額ではあるだろうけど、だからと言ってとがめられる事ではない。


 口外無用をお願いしたけど、朝廷内で大村藩の立場が上がったのは間違いない。





 ■大坂 適塾


「おい、それは本当か?」


「ああ、間違いない。牛の種痘を人に施したそうだぞ!」


「なんだと! ? おさじ医の俊達様が成し遂げたのか? らん学を学ぶ者として疑う訳ではないが、いまだに信じられん。牛のうみが人間の痘瘡とうそう(天然痘)に効くとは……」


 適塾の片隅で、五人の若者がジェンナーが発見した種痘法について、大村藩が実践し成功を収めたという話をしている。稲田又左衛門もその一人である。


「いや、実は率先して行ったのは、医学方副頭取の尾上一之進様らしい。御家老の次郎左衛門様の肝いりのようだ」


「尾上一之進様? あの、あまり表にでないお飾りのようなお方がか?」


「何を言う! お主知らぬのか! ? その牛痘による種痘はもちろん、エーテルという薬を使って、まるでその……通仙散のように人を眠らせて起こす術も用いるそうだ。藩主様のご病気も、俊達先生とともに侍医として治療にあたられているそうだぞ」


 稲田又左衛門は、大村藩から派遣された遊学の徒(以後留学生と記述)のうちの一人である。


 彼ら五人は緒方洪庵のもとで蘭学(洋学)、つまり医学だけではなく、オランダ語に始まって、天文・暦学・地理・博物・物理・化学・兵学などを学んでいた。


「それがしは直にお目に掛かったことはないが、御家老様も一之進様も傑物のようだ。さらに、精煉せいれん方の信之介様は今少しで鉄製の大砲を鋳造し、日本にはない短筒をもこしらえていると聞く」


「さよう。それがしは火術方に知己がおるゆえ、つぶさに文にて聞き及んでおるが、高島秋帆先生も門下生とともに、新たな兵学を整えつつあるというぞ。それまでになかった、まったく新しいもののようだ」


 五人全員が、国許の家族や友人と、手紙のやり取りをしている。滞在費や遊興費、通信費なども全てが藩の費用であったが、そのかわり上方の情報を送るようにも命じられていた。





「なかなか、面白い話をしているね。少しばかり、わたしも混ぜてはくれぬか」


「せ、先生!」


 全員が振り返ると、塾長の緒方洪庵が立っていた。洪庵は適々斎塾(適塾)を9年前の天保九年に開き、今や適塾は全国から蘭学を志す者であふれかえっていたのだ。


「さきほど、牛痘の話をしていたね。本当なのかい?」


「は、はい。誠にございます。国許からの文にもそう書いております。もともと藩医の俊達先生は、人痘による種痘法を行っておいででしたが、数年前に医学方が設けられ、そこの副頭取の先生とともに実践しております。おかげで藩内で新たに痘瘡患者は生まれておらぬようです」


「なんと! それが誠であれば、是非にでもご教授願いたい。遠き蝦夷地で牛痘は行われてはいても、未だここ大坂では行われてはおらぬ。その、副頭取のお名前は?」


 洪庵は前のめりで話に聞き入っている。


「はい。尾上一之進先生と聞き及んでおります。申し訳ありません。それがし直にお目にかかった事はございませぬゆえ」


 一瞬、洪庵の頭に疑問が浮かんだ。


「はて……一之進先生……とな。私も塾を開く前に、長崎の和蘭商館医であるニーマン先生に学んだが、そのような御仁のお名前は聞いたことがない」


「これ以上はそれがしも、存じ上げませぬ」


「うむ。さようか。では文にて、いや……この儀ばかりは私自ら長崎、大村へ赴かねばならぬかもしれぬな」





 ■長崎 奥山静叔塾


 大阪の適塾に在籍中でありながら、村田蔵六(後の大村益次郎)は蘭学の本場は長崎として、先に適塾で学んだ兄弟子ともいうべき奥山静叔の塾に遊学していた。


「先生、どちらに行かれるのですか?」


「ちと大村まで行ってくる」


「大村にございますか?」


「うむ」


「なにゆえにございますか? 所用であれば私が承ります」


「ありがとう蔵六、されどこればかりは他人には任せられぬのだ」


「いかがしたのですか?」


「お主が来る前に、わたしは大村藩の藩医である尾上一之進殿から牛痘を譲り受け、この地で種痘を行っておったのだが、手違いでその種を殺してしまったのだ。そのため、恥をしのんで再びもらい受けにいかねばならぬ」


「牛痘にございますか? そのように優れた医師が大村には居るのですか?」


 驚きとともに、好奇心が蔵六の頭をよぎった。


「優れたも何も、和蘭から牛痘を取り寄せ、大村藩はおろか、この長崎で種痘を薦めたのは一之進どのじゃ。その他にも長与俊達どの、かのシーボルト先生の門下生である二宮敬作先生や石井宗謙先生も、大村藩の医師なのだ」


「これは……存じ上げませんでした」


「前月来たばかりのお主が知らぬのも無理はない。いまやこの西国では、出島で学ぶか大村か、というくらい洋学が盛んなのじゃ」


「……先生、どうか、どうか私もお供させていただけませんか」


「ふふふ。蔵六のこと。そう言うと思ったよ。ついてくるが良い」


「ありがとうございます」


 村田蔵六は静叔とともに大村藩へ向かい、大村洋学の門を叩くのであった。





 次回 第85話 『ドライゼ銃完成せり。大砲の鋳造幾分か定まれども完全に非ず。儀右衛門、蒸気機関の製造に本格着手せり』

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